橿原市の史跡を巡る【藤原京朱雀大路跡】藤原京のメインストリート「朱雀大路」の道幅を知る

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マップを見ながら史跡を巡るのが好きなみくるです。

今回は橿原市観光協会さんの観光パンフレット「橿原まちあるきまっぷ~ 藤原宮跡周辺を歩く」に掲載されている「国史跡 藤原京朱雀大路跡」をご紹介します。

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国史跡 藤原京朱雀大路跡

「国史跡 藤原京朱雀大路跡」の碑と説明案内板は、奈良県橿原市飛騨町に建っています。

藤原京は、694年(持統天皇8年)から、710年(和銅3年)に平城京に遷るまでの16年間の都です。大極殿・朝堂院の跡を中心とする地域が「藤原宮跡ふじわらきゅうせき」として「特別史跡」に指定されています。

藤原宮の南正門(平城宮・平安宮の朱雀門に当たる門)については、戦前に日本古文化研究所により発掘された「朝集殿院南門」が、最近の再確認調査などの結果、藤原宮朱雀門すざくもん推定朱雀門)に比定されました。

朱雀大路すざくおおじ」は、藤原京を東西に分ける幅24メートルの道路です。

推定朱雀門」から南に延びる「朱雀大路」については、1976年(昭和51年)、橿原市の市営住宅建設に伴う発掘調査によって、幅4メートル、深さ0.4メートルの南北大溝2条が検出され、溝中から藤原宮跡と同時期の遺物が出土することもあり、幅24メートルの大路の存在が確かめられました。

⇩「橿原市藤原京資料室」に展示されている藤原京の1000分の1の模型です。写真中央下方(南側)から上方(北側)に真っすぐ伸びている大路が「朱雀大路」です。

橿原市の史跡を巡る【橿原市藤原京資料室】圧巻の巨大模型で藤原京を学ぶ~藤原宮跡周辺を歩くその5

この幅24メートルという規模は、幅約90mの「平城京朱雀大路」と比較するとはるかに狭いものの、藤原京朱雀大路の存在が確認されたことは、藤原京が中国の都城制に倣って計画されたことを考古学的に立証する有力な資料となるものであり、藤原京の全体像を解明する上で重要です。

藤原京の南には日高山という小高い丘陵がありますが、朱雀大路の建設の際にはこの丘を削って道を造ったことがわかっています。

朱雀大路は重要な道路で、儀礼を行うだけでなく、藤原京の呼び方の基準となりました。藤原京の呼び方で「右京」「左京」というのは藤原宮にいる天皇が南を見たときに朱雀大路の右側(西側)を右京、左側(東側)を左京としたものです。

中心施設である「藤原宮」が京の中心にあるのが、藤原京の特徴です。

藤原宮にはかつて、一辺約1キロメートルの中に大極殿朝堂院といった国をあげての儀式や政治を行う施設や天皇の住まいである内裏などがあり、現在の皇居と国会議事堂、霞ヶ関の官庁街を合わせた性格を持っていました。

藤原京は、東西南北に張り巡らされた道路によって街並みが碁盤目状に区切られ、その中に多くの寺院や役所のほか、市場や役人、庶民の住宅や寺院などが計画的に配置されていました。人口は約3万人と推定されています。

現在、朱雀大路は藤原宮の南から日高山までの範囲が復元され、当時の道幅を知ることができます。

⇩藤原京 朱雀大路跡
北方に藤原宮跡を望む。後背は耳成山。

藤原京 – Wikipedia
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国史跡 藤原京朱雀大路跡へのアクセス

奈良県橿原市飛騨町

藤原宮跡の駐車場をご利用ください。

道路を挟んで向かいにある別所池の畔に、藤原京が平城京に遷都した後に詠まれた歌碑が建っています。

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こちらの記事では藤原宮跡周辺の観光スポットをまとめてご紹介しています。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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