龍神伝説が息づく古刹【龍象寺(りゅうぞうじ)】で巡る神秘の安産祈願(奈良県奈良市)

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生まれも育ちも奈良県のみくるです。幼い頃より何となく参拝してきた県内に数多くある神社仏閣について、きちんと知りたいと思っています。

奈良県奈良市の帯解おびとけ地域は、古くから安産・子授けの地として知られています。

こちらの記事では、奈良県奈良市今市町にある華厳宗の寺院で、日本最古の安産・求子(子授け)祈願の霊場として知られている帯解寺(おびとけでら)をご紹介しました。

今回は、奈良市柴屋町にひっそりと佇む龍象寺(りゅうぞうじ)の魅力と、境内の様子を詳しくご紹介します。

龍神伝説が息づく古刹「龍象寺」

龍象寺は、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開基したと伝わる歴史のあるお寺で、帯解寺と同じく安産・子授け祈願で知られます。奈良の喧騒から離れた静かな環境で、心温まる良い時間が過ごせました。

本堂に描かれている天井画「帯解龍王(九龍大神)」が棲む「広大池」の景観も合わせてご紹介しています。

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奈良の隠れた名刹「龍象寺」を訪ねて

龍象寺の概要

奈良県奈良市にある龍象寺(りゅうぞうじ)は、聖武天皇の勅願所として、行基菩薩が730年に創建したと伝わる高野山真言宗の寺院です。

奈良の隠れた名刹「龍象寺」

行基菩薩が誕生の際に難産であったため、母が地蔵尊に祈願して無事出産したことに報恩し、また末世の女性の安産や子授けのために、自ら地蔵尊を彫刻して伽藍を建立したと伝えられています。

山号を「宝寿山(ほうじゅさん)」といい、正式名称を「宝寿山 龍象寺」といいます。寺号標に刻まれている「宝寿山龍象資聖禅寺」は龍象寺の尊称で、皇室と強い繋がりがあることを示しています。

寺号標に刻まれている「宝寿山龍象資聖禅寺」

宝寿山龍象資聖禅寺とは

龍象寺の山号と、皇室との深い繋がりや格式を示す尊称が組み合わさった呼び方です。

龍象資聖禅寺」という名称は、龍象寺が享保年間(1716年~1736年)に一乗院宮(皇室出家門跡)から拝領した大きな扁額に記されていたものです。この「資聖しせい」という言葉は、非常に格式の高い寺に付けられる称号であるとされています。当時の住職であった百拙禅師の時代に、特に皇室関係の安産祈願が盛んに行われたことを示しています。

かつて広大池の南畔にあったとされる広大寺の奥之院と言われています。

広大寺の奥之院「龍象寺」

龍象寺は「帯解寺」と名前が似ており、安産・子授けのご利益がある点も共通していますが、別々のお寺で、直接的な関係はありません。

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龍象寺のご本尊とご利益

ご本尊の帯解子安地蔵菩薩は、安産祈願の対象として知られ、帯解寺の近くに位置することから、地域の安産信仰の中心地の一つとして親しまれています。

龍象寺の本堂

本堂の天井には、江戸時代の狩野春甫かのうしゅんぽによって描かれた「帯解龍王(九龍大神)」の天井画があります。この龍は広大寺池の主であり、古くから当寺の眷属として霊験が多いと伝えられています。

広大寺池
広大寺池

現在、この天井画は修復中で(令和6年11月から約2年半)、本堂内には足場が組まれていました。

龍神画像修復のお知らせ
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龍象寺の境内の様子

山門

龍象寺に訪れてまず目を引くのが、どっしりとした趣のある山門です。

元々は、伊勢・藤堂家の城和領を統括した古市代官所の陣屋門で、明治に帯解小学校の校門として移築されていましたが、1955(昭和30)年に再度当寺の表門として移築されました。

龍象寺の山門

江戸時代の陣屋門遺構として貴重な建築です。

山門をくぐり参道を進むと、正面に本堂が見えてきます。

龍象寺の山門から見る本堂

境内は、緑豊かな癒しの空間となっていて、季節の花が彩を添えてくれていました。

緑豊かな龍象寺の境内
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本堂

本堂は、落ち着いた色合いの木造建築で、厳かな雰囲気をまとっています。龍象寺のご本尊「帯解子安地蔵尊」を安置します。

龍象寺の本堂

永禄年間の松永久秀による大和侵攻で兵火にあい、伽藍の大半は焼失しましたが本堂と開山堂だけが焼け残ったとされます。

建築年代は不明ですが、柱や屋根の装飾・構造から、安土桃山から江戸初期あたりの建物と考えられています。

本堂の内部は、外観とはまた異なる静謐な空間が広がっています。天井には、江戸時代の絵師、狩野春甫によって描かれた「帯解龍王(九龍)」の天井画があるのですが、残念ながら私が訪れた時は修復中でした(令和9年頃まで修復予定とのこと)。

この龍は、すぐ近くにある広大池の主であり、当寺の眷属として霊験が多いと伝えられています。修復が終わったら、その迫力ある姿を拝見してみたいです。

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本堂前の賓頭盧尊者(なで仏)

本堂前には、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)が安置されています。

本堂前の賓頭盧尊者(なで仏)

賓頭盧尊者は、お釈迦様のお弟子の一人で、十六羅漢じゅうろくらかんに数えられる尊者です。

本堂前の賓頭盧尊者(なで仏)の説明板

多くの寺院において、本堂の近くに安置され、「撫で仏(なでぼとけ)」として親しまれています。

賓頭盧尊者は、お釈迦様の弟子であり、すぐれた神通力を持ち、撫で仏と言われ、自分の体の悪い所と同じ部分を撫で祈願します。長眉は釈迦の勅命により、人々を救済する為にこの世に長く留まっている証です。口を開いているのは雄弁の相、また体が赤い場合もありますが、それは疫病、魔を払う色であります。

龍象寺
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鐘楼

鐘楼は1880年再建と伝わります。

龍象寺の鐘楼

明王堂(護摩堂)

明王堂では、不動明王愛染明王金剛夜叉明王が安置されています。護摩堂は、密教の護摩供ごまくを行う場所です。護摩供とは、煩悩を焼き尽くす「火」を使って願いを天に届ける真言宗の秘法で、厄除け・病気平癒・開運などにご利益があります。

明王堂(護摩堂)
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藤木良弼の碑

幕末の国学者・藤木良弼ふじき りょうすけの碑は、もともと明治42年(1909年)に建立されたものですが、しばらく所在不明になっていました。しかし、平成25年(2013年)12月15日に、本堂北側の隅に裏返しになっていたもの(台座と思われていたもの)が掘り起こされ、同年12月29日に再建立されました。

藤木良弼の碑

藤木良弼は、龍象寺の北側の高井氏宅の付近に住んでいた人物とされ、龍象寺の門前にある「たちばなや」(現在は宿屋を営んでいない)に宿泊し、歌や画賛を残したと伝えられています。

木原保吉功労碑

木原保吉功労碑は、本堂に向かって左側の、楠の木陰にひっそりと佇んでいます。

木原保吉功労碑

木原保吉氏は、明治期において奈良県内で初めて教科書販売の権利を得た人物です。彼はその権利を独占することなく、後日、多くの人々に分け与えたとされています。この功績から、彼は奈良県下の教育関係の小史においても重要な存在とされています。

木原氏は龍象寺の檀家でもありました。明治39年(1906年)2月5日に41歳で亡くなっています。戒名は「宝巌鉄了居士(ほうがんてつりょうこじ)」です。

木原保吉功労碑

この功労碑は、木原氏の死後、明治44年(1911年)9月に建立されました。大和書籍商協会に所属する31名によって建立されたもので、これら全員が木原氏の恩恵を受けた人々であったと言われています。石碑の揮毫は、越智宣哲おち せんてつ氏によるものです。

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龍象寺と広大池

広大池(こうだいじいけ)は、奈良県奈良市池田町・今市町に位置する大きなため池です。その歴史は古く、様々な伝説や言い伝えが残されています。

「日本歴史地名大系」によると、広大池は「古事記」「日本書紀」に記載されている「和珥(わに)池」と伝えられ、また推古天皇時代に築かれたとも言われています。

広大池

聖徳太子が秦河勝に築造させたという説や、平安時代に弘法大師(空海)が築造したという説もあります。これらの伝承からも、その歴史の古さと重要性がうかがえます。

東には春日山、西には遠く生駒山を望むことができ、夕日が美しい場所としても知られています。万葉まほろば線の列車が池の傍を走る景色も特徴的です。

広大池

龍象寺は、広大池の東、池を見下ろす高台にあり、かつて池の南畔にあったとされる広大寺の奥の院であったと伝えられています。

広大池

龍象寺の本堂に描かれている「帯解龍王(九龍大神)」の天井画は、この広大池の主であり、龍象寺の眷属として古くから霊験が多いとされています。夜な夜な池に遊び、寺の天井に戻る際にそのしずくを床に滴らせたという伝説も残っています。

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龍象寺へのアクセス

奈良県奈良市柴屋町177

JR桜井線(万葉まほろば線)帯解駅正面出口より徒歩約2分(駅前50m)。

JR帯解駅

境内に無料駐車場があります。

龍象寺の駐車場
龍象寺の駐車場

こちらの記事では、奈良県奈良市柴屋町しばやちょうにある「ストロベリー工房」さんをご紹介しています。

ストロベリー工房さんは、「中井農園」さん直営のスイーツ店で、奈良県産のいちご「あすかルビー」と「古都華ことか」を使った季節ごとのスイーツを楽しめるお店です。帯解駅から徒歩10分です。

ストロベリー工房の周辺の様子

最後までお読み頂きありがとうございます。

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