生まれも育ちも奈良県で、神武東征のドラマを追っているみくるです。
奈良県は、初代天皇である神武天皇が最終的に都を定め、日本の国づくりを始めた、まさに「国のはじまりの地」です。
前回は、「神武天皇聖蹟 鳥見山中霊畤顕彰碑」が建つ「等彌神社(とみじんじゃ)」から山に入り、古代祭祀の伝承地 「霊畤拝所」「庭殿」「白庭」 をめぐり、山頂の「霊畤の地」までの登拝の様子をご紹介しました。
登拝の途中で、鳥見山ならではの深い歴史を感じさせる万葉歌碑に出会いました。
うかねらふ 跡見山雪の いちしろく
恋ひば妹が名 人知らむかも
(万葉集 巻第10-2346)

この記事では、獲物をひそかに追うという意味を持つ枕詞「うかねらふ」と地名「跡見山」の深い繋がりを解き明かし、「隠しきれない恋心」と「国家祭祀の原点」という、一見相反する二つのテーマがどのようにこの地で結びついているのかを辿ります。
さらに、歌碑を揮毫した伊勢神宮大宮司・徳川宗敬氏の筆跡が、等彌神社と伊勢神宮という最高格式の聖地をいかに結びつけているのかを探りながら、古代から現代まで続く鳥見山の深い歴史とロマンをご紹介します。
鳥見山という古代祭祀の山と、伊勢神宮のあいだにある深い縁が、この歌碑を通して浮かび上がってくるようでした。
「うかねらふ跡見山」と神武天皇の霊畤(まつりのにわ)
等彌神社と鳥見山 ― 古代から続く祈りの関係
奈良県桜井市に鎮座する「等彌神社(とみじんじゃ)」は、背後にそびえる「鳥見山(とみやま・とりみやま)」と切り離して語ることができません。

『日本書紀』には、鳥見山で天皇が皇祖天神地祇を祀り、「霊畤(まつりのにわ)」を設けたという記述が残ります。この山は、神武天皇による建国最初の大祭祀の舞台であり、古代日本における国家規模の祭祀が行われた特別な山でした。
等彌神社は、この鳥見山信仰を継承し、山麓に祀られた社です。山上の祈りを里へとつなぐ役割を果たし、地域の中心的な信仰の場となりました。

そして、等彌神社の上津尾社(本社)の御祭神は、最高神である大日霊貴命(おおひるめのむちのみこと)、すなわち天照大御神(あまてらすおおみかみ)です。

天神を祀った鳥見山の聖地性を考えると、この神が祀られるのは自然なことであり、古代国家祭祀の精神がそのまま神社に受け継がれていることを示しています。
鳥見山稲荷神社から霊畤拝所へ
山頂に「鳥見山霊畤」がある鳥見山へは、鳥見山稲荷神社の鳥居から登拝します。

鳥見山稲荷神社の鳥居をくぐると、すぐに山道が始まります。

山道を100mほど進むと最初に現れるのが「霊畤拝所(れいじはいしょ)」です。

霊畤拝所に建つ万葉歌碑
霊畤拝所は、「霊畤拝所」と刻まれた石碑と万葉歌碑が建つ広がりで、鳥見山中の祭祀地を麓側から拝した場所と伝わります。

霊畤拝所の傍らに万葉歌碑が建っています。


歌碑に刻まれているのは、『万葉集』に残された次の一首です。
(原文)
窺良布 跡見山 雪之灼然
恋者妹名 人将知可聞
(読み下し)
うかねらふ 跡見山雪の いちしろく
恋ひば妹が名 人知らむかも
万葉集 巻10-2346 作者未詳
(現代語訳)
獲物をひそかに狙うというあの跡見山に降る雪が、はっきりと白く目立つように、こんなにもおおっぴらに恋い焦がれてしまったら、あの人の名前を、他の人が知ってしまうだろうか(いや、きっと知られてしまうだろう)。
万葉集の「跡見山」が語る、古代の風景と秘めた恋心
万葉集の「跡見山」
万葉集の歌「うかねらふ 跡見山雪のいちしろく 恋ひば妹が名 人知らむかも」に詠まれた「跡見山」という地名表記には、現代の「鳥見山」とは異なる、古代の風景と歌の情景を深める重要な意味が込められています。
現在「鳥見山(とりみやま・とみやま)」と呼ばれる山は、万葉集の時代には「跡見山(とみやま)」と表記されていました。
枕詞「うかねらふ」と地名「跡見」の結合
この歌の鍵は、地名「跡見山(とみやま)」を導く枕詞「うかねらふ(窺良布)」にあります。
- うかねらふの意味: 「ひそかに獲物の足跡(あと)を見(み)て、狙い定める」という意味を持ちます。古語では、この「あとみ」に音が通じる地名「とみ」にかかる枕詞として定着しました。
- 「跡見」表記の必然性:万葉集の歌人は、この地名に「跡を見る」という狩猟や追跡の具体的な情景を重ねるために、現代で一般的な「鳥見山」ではなく、意図的に「跡見山」という漢字表記を選んだと考えられます。この表記は、当時のこの地が狩猟や、何かをひそかに追い求める場所であったという古い性格を反映していると言えます。
「跡見山」が強調する恋の切実さ
枕詞と地名の組み合わせは、歌の主題である「恋」の切実さを極限まで高めます。
- 秘めた恋の「跡」:「うかねらふ」が持つ「ひそかに狙う」というニュアンスは、「人目を忍ぶ秘密の恋」という状況と呼応します。
- 「雪のいちしろく」との対比:秘密にしたいはずの恋心が、足跡を辿るようにはっきりと目立つ「跡」となってしまう。そして、その恋心が、聖地である跡見山に積もる隠しようのない雪のように、周囲に知れ渡ってしまうことへの恐れ——。
この「跡見山」の表記は、単に地名を示すだけでなく、「隠しきれない恋の痕跡」という深いメタファーを歌に与え、恋焦がれる主人公の切実な心情を雄弁に物語っているのです。
古代国家の聖地と「恋の歌」
現代の「鳥見山」は、神武天皇が祭祀を行った「霊畤(まつりのにわ)」として知られる聖地です。
当時の人々にとって、最高の権威を持つ聖なる山(鳥見山)に、隠し通せないほど白く積もる雪という強烈な視覚イメージは、隠し通せない激しい恋心を表現するのに最もふさわしい舞台であったと言えるでしょう。
この「跡見山」の表記は、万葉歌人が、地名の持つ古い意味と、聖なる山の威厳を巧みに利用し、普遍的な人間の感情を古代の風景に昇華させた、詩的な選択であったと解釈できます。
徳川宗敬氏の揮毫と伊勢神宮との絆
等彌神社が持つ特別な格式と歴史的背景は、現代にも強い結びつきを残しています。それが、歌碑の揮毫者と、伊勢神宮からの鳥居譲渡という二つの象徴的な出来事です。
伊勢神宮大宮司による揮毫の意義
霊畤拝所の万葉歌碑(「うかねらふ 跡見山雪のいちしろく…」)を揮毫したのは、徳川宗敬(とくがわ むねよし)氏です。宗敬氏は、日本の祭祀において最高位に近い職である伊勢神宮の最高責任者、「大宮司(だいぐうじ)」を務めた人物でした。

大宮司は国家の祭祀を総覧する立場であり、宗敬氏が筆を執った背景には、天照大御神を祀る等彌神社の格式、そして神武天皇の祭祀の原点である鳥見山霊畤に対する深い敬意と理解があったと考えられます。
この揮毫は、単なる書家による協力ではなく、伊勢神宮という日本の最高権威が、等彌神社の歴史的価値を公に認めたことを示すものです。
伊勢神宮から譲渡された鳥居
さらに、等彌神社の第一鳥居は、平成27年(2015年)に、伊勢神宮の宇治橋内側の鳥居を譲り受けて再建されたものです。


伊勢神宮では、20年ごとの式年遷宮の際に、由緒ある神社に古材(鳥居など)を譲渡する習わしがありますが、この鳥居が等彌神社に譲渡されたことは、伊勢神宮と等彌神社が、古代からの祭祀の系譜で繋がる特別な関係にあることを、現代に伝える象徴となっています。

徳川宗敬氏の揮毫と鳥居の譲渡は、等彌神社が古代日本の祭祀史においていかに重要で、特別な地位を占めているかを証明する、動かしがたい証拠と言えるでしょう。
結び:聖地が伝える、秘めたる恋のロマン
万葉集に詠まれた一首の歌を辿る旅は、等彌神社と鳥見山が持つ、二つの側面を私たちに教えてくれました。
一つは、神武天皇の霊畤として、日本の国家祭祀の原点を宿す「聖なる山」としての顔です。
そしてもう一つは、「うかねらふ」という枕詞が導く、秘めた恋の切実な感情を受け止める「恋の舞台」としての顔です。
「跡見山の雪のいちしろく」という表現は、人目を避けたいはずの激しい恋心が、隠しようのない純粋な白さとなって、周囲に知られてしまうのではないかという、普遍的な人間の不安を見事に捉えています。
この地に立つ歌碑は、伊勢神宮大宮司であった徳川宗敬氏の揮毫によって、古代からの由緒と現代の権威が結びつけられ、聖なる山と切ない恋のロマンを後世に伝える役割を果たしています。
鳥見山に登り、万葉歌碑に触れることは、単なる歴史探訪に留まりません。それは、古代の人々が神と向き合った場所に立ち、彼らが隠しきれなかった熱い心に思いを馳せる、静かで奥深い巡礼の旅となるでしょう。
徳川宗敬氏の筆跡が結ぶもう一つの聖地「檜原神社」
等彌神社の鳥見山霊畤伝承と並び、奈良県桜井市には、日本最古の祭祀の場である三輪山を中心とした信仰があります。この二つの聖地は、揮毫者を通じて深く結びついています。
檜原神社の万葉歌碑
「大神神社(おおみわじんじゃ)」の摂社である檜原神社もまた、徳川宗敬氏が揮毫した万葉歌碑が建つ場所です。

檜原神社は、崇神天皇の時代に天照大御神が初めて祀られた場所(元伊勢の一つ)と伝わる神聖な地であり、背後にそびえる三輪山を拝む「三輪鳥居」が有名です。

この地には、三輪の杉の木を詠んだ歌が残されています。

(読み下し)
古の 人の植えけむ 杉が枝に
霞たなびく 春は来ぬらし
万葉集 巻10-1814 柿本人麻呂
揮毫者 徳川宗敬
(現代語訳)
昔の人が植えたという杉の枝に霞がたなびいていることだ。春はやって来たに違いない。
聖地の連続性を示す揮毫者
等彌神社(鳥見山霊畤)と檜原神社(三輪山元伊勢伝承地)という、日本の古代祭祀における二大聖地の歌碑を、伊勢神宮大宮司であった徳川宗敬氏が両方とも揮毫していることは、決して偶然ではありません。

宗敬氏の筆跡は、神武天皇の霊畤と元伊勢の聖域という二つの重要な場所を、日本の古代信仰の系譜という一本の線で結びつけ、この一帯が日本の歴史と信仰にとって極めて重要な地域であることを示しています。
等彌神社を参拝された際には、ぜひ足を伸ばし、檜原神社と三輪山の神々しい景観、そして共通の筆跡を持つ歌碑に、古代の聖地の繋がりを感じてみてください。

檜原神社については、こちらの記事でご紹介しています。
等彌神社へのアクセス
奈良県桜井市桜井1176
参拝者用の無料駐車場が用意されています。

最後までお読み頂きありがとうございます。




