里中満智子さんの『天上の虹』がきっかけで、『万葉集』が好きになったみくるです。
前回は、吉備池のほとりに静かに鎮座する「吉備春日神社」が、実は天武天皇を祀る「天武天皇社」としての深い歴史を持つことをご紹介しました。しかし、この神社の境内には、もう一つ、古代史の光と影を伝える重要な場所があります。
それが、悲運の皇子として名高い大津皇子(おおつのみこ)の辞世の漢詩と、その姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)の慟哭の万葉歌が刻まれた歌碑です。

神社の祭神(天武天皇)と、謀反の罪で処刑された大津皇子――。なぜ二人にまつわる歌が同じ境内に並び立つのか。今回は、この歌碑に秘められた大津皇子の非凡な才能と壮絶な最期、そして姉・大伯皇女の尽きることのない愛と悲しみの物語を深く掘り下げていきます。
大津皇子の辞世の漢詩と大伯皇女の挽歌
歌碑に刻まれた大津皇子の辞世の漢詩(『懐風藻』より)
大津皇子(おおつのみこ)は、天武天皇と天智天皇の皇女である大田皇女との間に生まれ、その才能と人望から次期天皇の有力候補とされていました。しかし、持統天皇(鸕野讃良皇女)との対立により、謀反の疑いをかけられ、志半ばで死を賜ることになります。
その際に詠まれたとされる漢詩は、わが国最古の漢詩集『懐風藻』に収められています。
金鳥臨西舎(きんう せいしやに てらい)
鼓聲催短命(こせい たんめいを うながす)
泉路無賓主(せんろ ひんしゅなく)
此夕離家向(このゆう いえをさかりて むかう)
懐風藻 大津皇子
(現代語訳)
太陽(金鳥)はすでに傾き、西の家屋を照らしている。
時を告げる太鼓の音は、まるで、死を目前にした私の短い命を急きたてるように聞こえてくる。
死出の旅路には、お客も主人もなくただ一人ぼっちだ。
この夕べ、自分の家を離れて孤影寂しく黄泉の旅へと出立しなければならない。
死を目前にした皇子の、孤独と悲壮感が胸に迫る、凄絶な辞世の句です。

大伯皇女が大津皇子の死を悼んで詠んだ挽歌
歌碑に刻まれた大伯皇女の万葉歌(『万葉集』より)
大伯皇女(おおくのひめみこ)は、大津皇子と同母の姉であり、斎王制度確立後の初代斎王(斎宮)として伊勢に仕えていました。
弟・大津皇子が刑死した報を受け、伊勢斎宮の職を解かれて都に戻った際に、伊勢の地を振り返り、慟哭の思いを込めて詠んだのがこの歌です。
(読み下し)
神風の 伊勢の国にも あらましを
何しか来けむ 君もあらなくに
万葉集 巻2-163 大伯皇女
(現代語訳)
(弟の処刑の報を聞かず)神風の吹く伊勢の国にそのままいればよかったものを、どうして都に帰ってきてしまったのだろうか。
(この都には)慕っていた大津皇子も、もういないというのに。
「伊勢に留まっていれば、弟がいないこの辛い現実を知ることはなかったのに」という、弟を失った深い悲しみと、都に戻ったことへの激しい後悔の念が込められています。
この歌は、皇女と皇子の深い姉弟の絆を伝えるものとして、多くの人の胸を打ちます。
大伯皇女の慟哭は全6首:全歌が弟への「挽歌」
大伯皇女が『万葉集』に残した歌は全部で6首ありますが、これらはすべて弟・大津皇子を想って詠まれた歌(挽歌)です。
この吉備春日神社の歌碑に刻まれた歌(巻2-163)は、大津皇子が刑死した後、伊勢の斎宮の職を解かれて都へ戻る道中で詠まれた2首の歌のうちの1首です。
(もう一つの帰京時の歌)
見まく欲り 我がする君も あらなくに
何しか来けむ 馬疲るるに
万葉集 巻2-164 大伯皇女
伊勢で弟の悲報を聞き、逢いたいと思う弟がいない都になぜ帰ってきたのか、と激しい後悔の念を吐露しています。姉弟の絆の強さと、皇女の深い悲しみが胸を打つ一連の歌です。
二上山に葬る時の歌(巻2-165/166)
大津皇子が葬られた二上山の歌碑には、次の挽歌が刻まれています。
(読み下し)
現身の 人にある吾れや 明日よりは
二上山を 弟背と吾が見む
万葉集 巻2-165 大伯皇女
(現代語訳)
(生きた)人間としてこの世にある私なのに、明日からはあの二上山を、弟のいる山として見るようになるのだろうか。
これは、大津皇子の遺体を葛城(二上山)に移して葬る時に詠まれた「挽歌」2首のうちの1首とされています。
吉備春日神社に建つ歌碑の向こうに、二上山が望めました。

もう1首はこちらの歌です。
(読み下し)
磯の上に 生ふるあしびを 手折らめど
見すべき君が ありといはなくに
万葉集 巻2-166 大伯皇女
(現代語訳)
磯の上に生えているアシビ(馬酔木)の花を手折ろうとしても、それを見せるべきあなた(大津皇子)は、もういないというのに。
大津皇子の辞世の句と、大伯皇女の挽歌については、「吉備池廃寺跡」の歌碑を巡る記事で詳しく紹介しています。ぜひ合わせてお読みください。
歌碑の揮毫者:福田恆存
この歌碑の文字は、大正・昭和期を代表する評論家・劇作家である福田恆存(ふくだ つねあり)氏によるものです。

進歩的文化人の平和論を批判するなど論争を巻き起こした氏が、悲劇の皇子と皇女の歌を力強く揮毫し、後世に伝えています。
古代の悲劇に思いを馳せて
吉備春日神社は、かつての祭日が大津皇子の命日と同じ日であったという謎など、古代の真実を秘めた場所です。
そして、その境内に立つこの歌碑は、政治的な争いに翻弄され命を落とした弟皇子と、その死を悼み続けた姉皇女の、切なくも美しい魂の交流を今に伝えています。
吉備春日神社を訪れた際には、ぜひこの歌碑の前で立ち止まり、古代の皇子と皇女の悲劇に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
『懐風藻』とは? 概要と歴史的意義
日本最古の漢詩『懐風藻』
大津皇子の辞世の漢詩が収められている『懐風藻(かいふうそう)』は、現存する日本最古の漢詩集です。
- 成立時期: 奈良時代初期の天平勝宝7年(755年)頃と推定されています。
- 編纂者: 不明ですが、淡海三船(おうみ の みふね)とする説が有力です。
- 収録内容: 近江朝から奈良時代初期にかけての、120首ほどの漢詩が収録されています。
- 特徴:
- 天皇・皇族から貴族まで、約64名の作品が年代順に並べられています。
- 収録された作者は、漢学を修め、政治や外交に携わった人々が中心であり、当時のエリート層の教養を示す貴重な資料です。
- 漢詩という形式を通じて、日本の宮廷における大陸文化(漢詩文)の受容と発展を知る上で、非常に重要な文献となっています。
- 大津皇子の悲劇的な辞世の詩は、この詩集の白眉とされています。
大津皇子の人物像と評価
大津皇子は、政治的な悲劇の主人公として知られますが、『懐風藻』や『日本書紀』の記述から、その人物像と才能は高く評価されています。
卓越した才能と教養
『懐風藻』の序文では、大津皇子の資質について「資(うまれつき)は岐嶷(きぎ:生れつき非凡なこと)、器量は宏遠(こうえん:心が広く志が大きい)」と極めて高く評価されています。
わずか24歳で短い生涯を終えましたが、その漢詩の才能は傑出していました。特に辞世の詩は、悲壮感に満ちながらも格調高い名作として、後世に大きな影響を与えています。
漢詩だけでなく、『万葉集』には、「ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」という辞世の和歌も残されており、和歌の才能にも秀でていたことが伺えます。
大津皇子の人望と次期天皇候補
大津皇子は父である天武天皇のもとで、若くして冠位四十八階の最上位に位置づけられ、朝政への参加を許されていました。壬申の乱(672年)では父に従軍し、軍事的にも活躍しました。
聡明で、周囲からの人望も厚く、皇太子であった草壁皇子(持統天皇の子)をしのぐ存在でした。この才能と人望の高さこそが、持統天皇に疎まれ、謀反の疑いをかけられる大きな原因となったとされています。
大津皇子の歴史的評価:「悲劇の詩人」
大津皇子の最終的な評価は、「時代の犠牲となった悲劇の詩人」という側面が強いです。
皇位継承権を持つ聡明な皇子でありながら、権力争い(天武天皇の死後の皇位継承問題)に巻き込まれ、24歳で刑死という悲劇的な最期を迎えました。
辞世の漢詩と和歌は、その才能と悲運の人生を象徴するものとして、後世の文学や歴史観に深く刻まれました。
吉備春日神社に漢詩と万葉歌の歌碑が並んでいるのは、この稀代の才能と悲運の皇子を、姉と共に長く悼み続ける人々の思いを今に伝えていると言えるでしょう。
結びに:悲劇の舞台、吉備春日神社へ
本記事では、吉備春日神社の境内に立つ歌碑に刻まれた、大津皇子の漢詩と大伯皇女の万葉歌に込められた深い物語を追ってきました。
- 大津皇子の辞世の漢詩は、彼の非凡な才能と、無念のうちに死を迎えなければならなかった孤独な心情を、私たちに強く伝えています。
- 大伯皇女の挽歌は、その悲しみと後悔が、伊勢から都へ戻る道、そして二上山に弟の遺骨を埋葬する時まで、決して尽きることのない深い慟哭であったことを示しています。
この一連の物語は、天武天皇から持統天皇への時代、権力の中心で起こった皇位継承をめぐる壮絶な悲劇の一端を鮮やかに映し出しています。
前回ご紹介したように、吉備春日神社は天武天皇社として重要な役割を果たしてきた場所です。そして今、この神社を訪れることは、権力者(天武天皇・持統天皇)と悲劇の主人公(大津皇子・大伯皇女)という、古代史の両極に立つ人々が交差した現場に立つことを意味します。
奈良県桜井市を訪れる際は、ぜひ吉備春日神社に足を運び、この歌碑の前で静かに立ち止まり、漢詩と万葉歌に込められた千年の時を超えた魂の叫びに耳を傾けてみてください。
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吉備春日神社へのアクセス
奈良県桜井市吉備259
駐車場はありません。
桜井駅(近鉄線・JR線)から徒歩約30分。
大福駅(近鉄線)から徒歩約15分。
最後までお読み頂きありがとうございます。

