杣之内古墳群を巡る【東乗鞍古墳】物部氏の首長墓か?石室には阿蘇ピンク石の石棺が現存!(奈良県天理市)

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古墳を見て歩きながら、古代に想いを馳せるのが好きなみくるです。

奈良盆地の東縁に位置する奈良県天理市。この地は、ヤマト王権の形成期を物語る古墳が数多く点在する、まさに“古墳の宝庫”とも言えるエリアです。

前回は、そんな天理市の古墳群の中でも特に重要な意味をもつ杣之内古墳群の中から「小墓古墳(おばかこふん)」をご紹介しました。

小墓古墳は、全国でも十数例しかない円柱を持つ高床式の家形埴輪や、おびただしい数の「木製の埴輪」ともいうべき木製品が見つかった古墳で、古墳祭祀についての貴重な資料として注目されている古墳です。

今回は、杣之内古墳群を構成する古墳の1つである「東乗鞍古墳(ひがしのりくらこふん)」をご紹介します。

東乗鞍古墳

東乗鞍古墳は、4世紀中頃に築かれた前方後円墳で、大和盆地に広がる古墳群の中でも特に注目される古墳です。古代日本の政治的中心地であった大和王権の成立期を物語る貴重な証拠として、古代史や考古学ファンから高い関心を集めています。

特にこの古墳の後円部に築かれた竪穴式石室には、熊本県阿蘇地方から運ばれた「阿蘇ピンク石」と呼ばれる美しいピンク色の凝灰岩が用いられており、遠方からの石材調達という当時の被葬者の強大な権力と広域交流を象徴しています。

かつては石室内部に立ち入ることもできましたが、現在は土砂の流入により封鎖されており、直接の見学は叶いません。しかし、その存在は現地の墳丘や副葬品の発掘成果から今も鮮明に感じ取ることができます。

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東乗鞍古墳と阿蘇ピンク石の石棺

東乗鞍古墳の概要

「東乗鞍古墳(ひがしのりくらこふん)」は、奈良県天理市杣之内町に所在し、西方の「西乗鞍古墳(にしのりくらこふん)」や「小墓古墳(おばかこふん)」などとともに杣之内古墳群のうちの一群を形成しています。

杣之内古墳群を巡る(写真手前は「小墓古墳」、向こうに「西乗鞍古墳」が見える)
写真手前は「小墓古墳」、向こうに「西乗鞍古墳」が見える

墳丘は前方部を西南西に向ける上下二段築成の前方後円形で、全長約83m、後円部径約44m、高さ約10mを測ります。前方部は大きく開く形状で、後期古墳の特徴をよく示しています。

※現地案内板には、全長約75mとありますが、2020年の発掘調査により83メートルに修正されています。

南から見る東乗鞍古墳
南から見る東乗鞍古墳

墳丘の外側からは、多数の円筒埴輪の破片が見つかっており、これは古墳の周囲に埴輪が立てられていたことを示しています。また、前方部の西側には、幅およそ10メートル、深さ約2メートルの大きな周濠が確認されています。

埋葬施設は後円部にあり、「右片袖式」と呼ばれる構造の横穴式石室です。この石室は巨石を用いて築かれており、全長は14.6メートルと非常に大きく、南方向に開口しています。

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阿蘇ピンク石を用いた石棺が現存!

後円部の南側には、右片袖式の「横穴式石室」が開口しています。横穴式石室とは、丘陵の斜面や墳丘の側面に開口部を設け、そこから横方向に内部空間が掘られた埋葬施設の一種で、古墳時代後期から多く見られる形式です。

東乗鞍古墳の現地案内板

石室の内部には、阿蘇溶結凝灰岩・通称「阿蘇ピンク石」で作られた「刳抜式家形石棺」が現存しており、手前には二上山白色凝灰岩製の「組合式家形石棺」の底石が残っています。

東乗鞍古墳の石室内部
東乗鞍古墳 – Wikipedia

残念ながら石室は過去に盗掘の被害を受けており、挂甲けいこう小札こざね(武具の一部)や馬具の杏葉ぎょうよう(装飾金具)といった副葬品が出土したと伝えられていますが、現在これらの副葬品の所在は不明となっています。

かつては内部に立ち入ることもできましたが、現在は土砂の流入などにより封鎖されています。

東乗鞍古墳の石室(土砂の流入により立入禁止となっている)
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なぜ阿蘇ピンク石は遠く奈良まで運ばれたのか?

阿蘇ピンク石」は、熊本県阿蘇地方で産出される美しいピンク色の溶結凝灰岩で、その見た目の美しさだけでなく、加工のしやすさや耐久性にも優れていました。

このような特別な石材を古墳の石室に用いることは、単に機能的な理由だけではなく、被葬者の権威や社会的地位を示すための「シンボル」としての意味合いが強かったと考えられています。つまり、遠方から貴重な石を運んでくることで、その豪族の力や富、広域に及ぶ人的ネットワークの大きさをアピールしたのです。

また、当時のヤマト王権は広範囲にわたる交流や支配を進めており、九州から奈良への物資の移動もその一環でした。阿蘇ピンク石の運搬は、地域間の連携や権力構造の複雑さを示す重要な証拠でもあります。

遠く九州から石を運ぶのは労力やコストがかかるため、それだけの価値と意味があったのだと理解すると、古墳を築いた当時の社会や文化の壮大さがより鮮明に見えてきますね。

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東乗鞍古墳の被葬者像を考える

東乗鞍古墳は、古墳時代後期前半、6世紀前半頃に築造されたと推定されます。周辺には同時期の西乗鞍古墳や小墓古墳があり、これらは古代有力豪族である物部氏の首長墓と考えられています。

物部氏は、大和政権の軍事や神祇に深く関わった古代豪族であり、軍事的な指導力と宗教的な権威を兼ね備えていました。

東乗鞍古墳の規模の大きさや、熊本阿蘇産の「阿蘇ピンク石」をはじめとする遠方産の石材の使用、さらに武具の一部である挂甲の小札や馬具の杏葉の副葬品の存在は、被葬者が広域的な影響力を持ち、物部氏の有力な首長であったことを示しています

また、6世紀前半はヤマト政権が国家体制の基盤を固めつつあった時期であり、物部氏をはじめとする豪族層は地域統治や軍事の要として重要な役割を果たしていました。東乗鞍古墳は、その中で物部氏の勢力を象徴する墓であるとともに、当時の社会構造や権力関係を物語る貴重な遺跡です

このように、東乗鞍古墳の被葬者は単なる地方豪族ではなく、政治・軍事・宗教の多方面に影響力を持つ有力者として、大和政権の形成と発展に深く関わっていたと考えられます。

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最新の発掘調査—東乗鞍古墳の新たな発見

2025年2月12日から25日にかけて、天理大学歴史文化学科と天理市教育委員会が共同で、東乗鞍古墳の第8回目となる発掘調査を実施されました。

天理大学による東乗鞍古墳の発掘調査の様子
東乗鞍古墳2025年発掘調査 | 天理大学

この調査には、天理大学の学生27名、奈良女子大学の学生2名を含む総勢29名が参加し、桑原久男教授、小田木治太郎教授、橋本英将教授の指導のもと、現地での実地調査が行われました。

天理大学と天理市は、2014年に包括的連携を締結し、2017年には「天理市内埋蔵文化財の調査・研究に関する覚書」を交わし、2018年から共同調査を進めています。

今回の調査では、石室の正面で儀式跡の可能性がある土器群が発見され、これまでの調査成果と合わせて、古墳の周辺区域の儀礼的な利用が明らかになりつつあります。

また、石室内に流入した土砂の除去作業も行われ、保存整備の進展が期待されています。これらの成果は、物部氏の首長墓としての位置づけをさらに強化するものと考えられ、被葬者の候補には、継体天皇の下で九州の豪族・磐井(いわい)と戦った物部麁鹿火(もののべのあらかい)などが挙がります。
朝日新聞「物部氏の武人の墓?儀式の痕跡も 天理市・東乗鞍古墳を天理大が調査」

物部麁鹿火(もののべのあらかい)とは?

物部麁鹿火は、古代日本の有力豪族・物部氏の首長の一人であり、軍事や祭祀を担った物部氏の中核的な人物とされています。

物部氏は古代のヤマト政権において軍事力と宗教的権威を背景に大きな影響力を持ち、鉄器や武具の管理、国家の神事を司っていました。麁鹿火はその物部氏の歴史の中で、軍事的リーダーとしての役割を果たし、物部氏の勢力拡大と権威確立に貢献したと伝えられています。

史料としては、『日本書紀』などにその名が記されており、物部氏の祖先や象徴的な存在としても位置づけられています。

物部氏ゆかりの古墳群や史跡を訪れる際には、この物部麁鹿火の名前を思い浮かべることで、当時の豪族の生活や社会的背景により深く思いをはせることができるでしょう。

発掘調査の詳細や現場の様子については、天理大学の公式ウェブサイトで報告されています。興味のある方は、ぜひご覧ください。

東乗鞍古墳へのアクセス

奈良県天理市杣之内町153

天理市営駐車場 山の辺の道(杣之内)を利用されると便利です(徒歩10分)。

天理市営駐車場 山の辺の道(杣之内)

写真右手が「西乗鞍古墳」、左手が「東乗鞍古墳」です。

天理市営駐車場 山の辺の道(杣之内)から見る西乗鞍古墳と東乗鞍古墳

親里ホッケー場から見る東乗鞍古墳です。

親里ホッケー場から見る東乗鞍古墳

東乗鞍古墳は、天理市杣之内町の古墳群の一つで、西乗鞍古墳や小墓古墳も近くにあります。合わせて散策すると、より充実した古墳巡りを楽しめます。

こちらの記事では、杣之内駐車場のすぐ西側に広がるひまわり畑と、周辺の見どころをまとめてご紹介しています。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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