古代史をきちんと学んで、史跡巡りをもっと楽しみたいと思っているみくるです。
今回は、奈良県橿原市の「歴史に憩う橿原市博物館」で開催中の、令和6年度 夏季企画展「深堀り 曲川遺跡」をご紹介します。
開催期間は、令和6年7月13日(土)~10月27日(日)です。
歴史に憩う橿原市博物館
「歴史に憩う橿原市博物館」は、橿原市川西町の「新沢千塚古墳群」に隣接したサイトミュージアムです。橿原市を代表する遺跡から出土した資料が展示されていて、縄文時代から江戸時代の遺物を手の届く距離で見ることができます。
「歴史に憩う橿原市博物館」、略して「イコハク」の魅力と見所、常設展示の内容について、こちらの記事で詳しくご紹介しています。
令和6年度 夏季企画展「深堀り 曲川遺跡」
特別展示室
特別展示室では、年に数回の企画展や特別展が開催され、毎回様々なテーマで歴史の楽しさを伝えて下さっています。
令和6年(2024年)7月13日(土)~10月27日(土)の期間は、イコハク開館10周年令和6年度夏季企画展「曲川遺跡深堀り」が開催されています。
平成26年度に開館した歴史に憩う橿原市博物館は、今年度で10周年を迎えました。史跡 新沢千塚古墳群のサイトミュージアムとしての役割を果たしながら、橿原市の歴史を楽しく知っていただくことを目的としています。
橿原市といえば、藤原京、今井町、古墳も神社もお寺も・・・あらゆる時代の遺跡や文化財が数多く残ることで知られています。
イコハクでは、それらの遺跡や文化財の調査成果を利用して、様々なテーマの展覧会を開催してまいりました。 今回は、あえてひとつの遺跡にスポットを当てることで、橿原市の歴史の新しい一面をお伝えする内容です。
展覧会で取り上げる「曲川遺跡」は、橿原市曲川町にある大規模遺跡で、縄文・弥生・古墳・平安・鎌倉・室町時代と、長期間にわたって人々の生活が営まれました。それだけでなく、それぞれの時代の橿原を代表する規模を誇ります。展覧会では、4つのテーマで曲川遺跡を「深掘り」し、その魅力を発掘していきます。
歴史に憩う橿原市博物館 令和6年度夏季企画展「深掘り曲川遺跡」/橿原市公式ホームページ
はじめに~曲川遺跡とは?~
曲川遺跡は、橿原市の西部、大和高田市との市境にある曲川町とその周辺に所在し、曲川町のほぼ南半分が遺跡の範囲に含まれます。
遺跡の広さは、最大で東西800m・南北900mにも及びます。遺跡は、北に向かって流れる葛城川と曾我川にはさまれ、南東には畝傍山があります。
曲川遺跡が発見されたのは戦後間もない頃のことでした。現在はほとんどが埋め戻されている曲川池にて、国道建設に必要な土砂の採掘を行っていた際、土器が発見されたことがきっかけとなりました。
その後、1980年代から2000年代にかけて、橿原市の奈良県立橿原考古学研究所、財団法人元興寺文化財研究所によって、20回を超える発掘調査が行われ、曲川遺跡の変遷が明らかにされつつあります。
今回は、主にミヤケ地区、香田・初瀬ノ垣内地区、馬場地区等で行われた発掘調査の成果を取り上げます。そして、縄文時代から古墳時代、平安時代から鎌倉時代の曲川遺跡の歴史的価値を紹介し、その魅力を発掘していきます。
縄文集落での暮らしと交流
今から約20年前に行われた発掘調査で、川沿いに営まれた晩期中葉~後葉の集落跡がほぼ丸ごと見つかりました。集落には、住居跡、炉、土器棺墓、貯蔵穴などがあり、その大きさは東西100m・南北180mに及びます。
土器・石器のほか、土偶・犬型土製品や、土製の腕輪・耳飾り・木製の腕輪などが見つかっています。
常設展示室でも、曲川遺跡の出土品が展示されています。
- 1 磨製石斧 観音寺本馬遺跡
- 2 打製石斧 曲川遺跡
- 3 磨石 曲川遺跡
- 6 縄文土器 深鉢 曲川遺跡
- 7 縄文土器 深鉢 曲川遺跡
集落での生活
発掘調査では10基の貯蔵穴が見つかっています。貯蔵穴は、ドングリなどの木の実を水漬けにして長期保存するためのもので、食料が少ない冬季の貯えのために掘られました。
貯蔵穴は、墓の存在と共に、当時の人々が一年を通じて定住していた根拠の一つであると言えます。
石鏃や石斧などの石製品だけでなく、石器を作るサヌカイトの原石や製作途中の石器、石を打ち砕いた時に飛び散った破片が多量に出土しました。これは、住居の周囲で石器を制作してい事を示しています。
石器は、用途によって石材を使い分けていました。石材の産出地は限られるため、どこから持ち込まれたものか知ることができます。
石鏃は二上山のサヌカイト、緑色岩製の磨製石斧は紀の川流域、同じく蛇紋岩製の磨製石斧は北陸地方など遠方から持ち込まれた可能性があります。
曲川の縄文集落からは、他地域の品、他地域の情報を得て作られたものが多く出土します。
様々な文様の土器
曲川遺跡では東北・北陸、瀬戸内など、橿原市から遠く離れた地で作られた土器が出土しています。土器には様々な文様がつけられ、その特徴を見ていくことで、どこの地域の土器かが分かります。これは当時の人々の交流の範囲を示します。
畝傍山の東に位置する橿原遺跡と共に、曲川遺跡の特徴であると言えます。
出土した土器や石器をみていくと、当時の人々の交流や、文化が伝わる範囲が広かったことがわかります。そして、曲川遺跡や橿原遺跡、観音寺本馬遺跡がある橿原市西部は、縄文集落の宝庫と言えます。
弥生時代と古墳時代をつないだ「曲川式」土器
当初、曲川遺跡は弥生時代の終わり頃の遺跡としてその名を知られることとなりました。遺跡発見のきっかけとなった曲川池の土器の形が、弥生土器から土師器に形が変わる途中のものと考えられたからです。
曲川池の土器は、弥生時代の終わり頃と古墳時代の初めをつなぐ資料として、土器研究の進展に大きな役割を果たすことが期待されました。
曲川遺跡の発見と「曲川式」土器
曲川池で発見された土器には、丸みを帯びた形に、小さな底がついているものや、底が尖ったものがありました。このような土器の形の特徴は、平底が基本となる弥生土器が、丸底が基本となる古墳時代の土師器に変化している途中の段階のものと考えられました。
弥生土器と土師器につながりがあることを示した資料であること評価され、「曲川式」土器という名前が使われることになったのです。
しかし、「曲川式」土器は、曲川池の工事で偶然見つかった資料だったので、どんな土器で構成されているか、全貌がわかりませんでした。そのため、同じ時期の遺跡の発掘調査が増え、より良好な資料が発見されていくなかで、「曲川式」の呼び名は使われなくなっていきました。
現在、弥生時代の終わり頃の土器は、庄内式土器と呼ばれ、古墳時代の始まりを解明するための大きな手がかりとなっています。「曲川式」の呼び名を消えましたが、この時代の土器研究を切り開いた資料であると言えます。
「曲川式」土器が作られた時期は、弥生時代の伝統を残しながらも、古墳が社会の秩序を維持する装置となる社会の成立に向けて、人々の価値観が大きく変化し始めた時代です。「曲川式」土器は、そんな時代の人々のことを私達に初めに伝えた「証人」とも言えるでしょう。
曲川遺跡の方形周溝墓
弥生時代から古墳時代にかえてのお墓が多数発見されました。周囲に方形や円形の溝を巡らす周溝墓と呼ばれるお墓です。
円形周溝墓や、他より大きい方形周溝墓の存在は、社会の変化が墓造りの変化に影響している事を示しています。
古墳時代の流行と曲川の人々
古墳時代の曲川遺跡を語る上で欠かせないのが曲川古墳群です。ミヤケ地区と香田・初瀬ノ垣内地区では、縄文時代と弥生時代の墓が見つかっていますが、続く古墳時代にはこの他に多くの古墳が築かれるようになります。
曲川古墳群とは?
曲川古墳群は、古墳時代前期後半(4世紀後半)から中期末(5世紀末)にかけて、造られた古墳群です。一辺10~17mの方墳で構成された、これまでの発掘調査で18基の古墳が発見されています。いずれの古墳も鎌倉時代には墳丘が削られ、周濠(古墳の周りに掘られた堀)は埋められて、地上から姿を消していました。
前期古墳は2基で、他に円筒埴輪を用いた棺も1基あります。続く中期後半(5世紀前半)~中期中頃(5世紀中頃)が古墳群形成の最盛期で、中でも規模の大きな古墳は、この時期に築かれています。
古墳時代中期(5世紀)には、奈良盆地にとどまらず、全国各地で平地にも小さな古墳群が築かれるようになり、橿原市でも四条古墳群や、下明寺古墳群などが築かれました。その中でも、曲川古墳群は、前期後半の早い時期に築かれ始めており、市内における「新しい古墳」の導入のあり方を示す遺構として注目されます。
出土遺物から見る曲川古墳群
古墳の周濠からは、埴輪や土器が出土しており、土器共献・埴輪祭祀といった儀礼行為の一旦を見ることができます。
土器には、当時朝鮮半島で作られた陶質土器の他、陶質土器を制作する技術を学び創り出した初期須恵器、朝鮮半島の土器の影響を受けた韓式土器が含まれ、曲川遺跡の人々と渡来人の間に交流があったことがわかっています。
埴輪は、一般的な家形埴輪だけどなく、鶏形・盾形・短甲形など多彩な形象埴輪があり、まさに埴輪祭祀の流行に乗っていたことが分かります。
曲川古墳群の古墳造営の様子や出土遺物を見ていくと、古墳での伝統的な祭祀が盛んになっていく時代の流れの中で、曲川遺跡の人々も他の地域の人々と同様、普段の暮らしに新しい文化を取り込みつつ、伝統的な文化も発展させていったことがわかります。
⇩短甲形埴輪(上段)と初期須恵器(下段)~陶室土器の形を模倣して~
古代・中世の集落の信仰と屋敷跡
南の微高地に曲川池、北端に集落、その間に広大な田畑が広がる曲川村の発達以前、平安時代中期から鎌倉時代中期にかけて存続した、荘園関連集落がありました。
鎌倉時代の神社遺構か?!
初瀬ノ垣内地区周辺の調査成果から、溝で区切られた複数の方形区画があることが判明しました。中でも2001-4次発掘調査ではその区画内部に、東西16m、南北11mで南に陸橋がある方形区画溝、陸橋の南に入母屋造とみられる東西棟建物を検出しました。
方形区画溝からは瓦器・土師器皿が大量に出土しています。この溝は、区画内に同時期の遺構が無い点や、深い薬研堀である点などから、高い基壇をめぐる周濠の可能性があります。
土師器の大部分がほぼ新品の皿であり、陸橋で接する四面庇建物との位置関係から、基壇上には本殿、切妻造より格上の拝殿という、神社もしくは拝礼施設がった可能性があります。
1997-11次調査、2001-8次でも土師器・瓦器が出土したL字またはコの字形を呈する溝が見つかっていますが、2001-4次のように明瞭な陸橋や建物との関係が明らかとなったものはありません。
平安時代の屋敷墓
馬場地区2001-8次調査では、11世紀半ば頃の掘立柱建物と木棺墓を検出しました。木棺墓は、長さ2.2m、幅0.33mの短冊形の掘方で、残存する深さは0.36mです。
木棺は北小口板のみが板材で、それい以外は棒状の桟木を重ねた井桁組みです。棺内からは、被葬者の骨・歯や、副葬品が出土しています。被葬者の性別・死亡年齢は不明です。
曲川集落の発達以前、沖積地に点在していた村落の一部が見つかっています。南向きの神社跡は、曲川町内に鎮まる金橋神社や八幡神社の社殿が東向きなのとは異なります。
南向きは公的な性格と考えられ「曲川荘」経営に伴う村落内の信仰施設と考えられます。一方で木棺墓は、古代から中世へ受け継がれていく村落の、古い段階の屋敷墓の様相を伝えています。
おわりに~曲川遺跡の意義
橿原市の歴史の中で、曲川遺跡にはどんな意義があるのでしょうか?それぞれの時代の曲川遺跡の歴史的な意義をまとめます。
縄文時代
遺跡から発見された土器や土偶などの資料は、縄文時代の人々が、現在の奈良県の範囲を超え、遠方の地域の文化と接していたことを証明しています。
弥生時代
弥生時代から古墳時代のうつり変わりを知るきっかけとなる土器群が出土し、考古学研究の進展に寄与しました。
古墳時代
曲川古墳群における様々な埴輪の使用や、朝鮮半島に由来する土器の出土は、新しい技術や文化を受け入れつつ、伝統的な文化を発展させていく、古墳時代の人々の情報に対する認識を知る事ができます。
平安時代
今は失われた集落で見つかった平安時代の屋敷墓や、鎌倉時代の神社遺構を通して、人々の生死観や信仰心を知ることができます。
まとめ
曲川遺跡を深堀りするほど、遺跡を残した人々の実像が明らかになっていきました。
しかし曲川遺跡の意義は、当時の人々の姿を伝えることだけではありません。「曲川式」土器が、現在を生きる私達によって意義づけられたものであることは重要です。当時の人々が普段何気なく使っていたものを、私達が気づき、評価したことは、歴史の主人公は常に人であることも示しています。
今日、曲川遺跡の場所には、バイパス沿いに様々な商業施設が立ち並び、過去の風景はほぼ残っていません。1000年後の人々は、コンクリートの基礎を繰り返し抜き取った跡や上下水道、アスファルトで舗装された道路を見つけ、そこから出土した様々な資料、つまり私達が今、使い、捨てたものをもとに、新しく歴史の1ページを書き加えることでしょう。そこには、私達が思ってもいなかった視点での評価があるかもしれません。
曲川遺跡は、過去と現在、未来がつながっていることを私達に教えてくれます。
「深堀り 曲川遺跡」展示解説書
当記事は、橿原市魅力創造部文化財保存活用課さんが制作された、令和6年度 夏季企画展「深堀り 曲川遺跡」展示解説書をもとに作成しました。展示解説書は、歴史に憩う橿原市博物館で頂けます。
数々の出土品からわかることや、曲川遺跡が教えてくれること、歴史を学ぶ意義について、深く学ぶきっかけを与えて下さったことに感謝致します。
歴史に憩う橿原市博物館の利用案内
アクセス
奈良県橿原市川西町858-1
公共交通機関をご利用の場合
近鉄:橿原神宮前駅下車 西出口より 徒歩30分
奈良交通バス:橿原神宮前駅西口のりば
- 「イオンモール橿原」行き…『川西』バス停下車後正面
- 「近鉄御所駅」、「観音寺・古作」行き…『川西』バス停下車後北へすぐ
お車をご利用の場合
京奈和自動車道「橿原北IC」から7.2キロメートル・「御所IC」から2.3キロメートル
大和高田バイパス「新堂ランプ」から2.8キロメートル
無料駐車場は2箇所にあります。
利用案内
- 開館時間 午前9時~午後5時(入館受付は午後4時30分まで)
- 休館日 月曜日(休日の場合は翌日。連休の場合は休日終了後の翌日。)および12月27日~1月4日
- 観覧料 大人:300円、学生:200円、小人:100円
※障がいのある方及びその介護者は該当料金の半額
歴史に憩う橿原市博物館(イコハク)については、こちらの記事でご紹介しています。
最後までお読み頂きありがとうございます。