古墳を見て歩きながら、古代に想いを馳せるのが好きなみくるです。
今回は卑弥呼のお墓とも言われる奈良県桜井市の「箸墓古墳」と同じ「纏向遺跡」にある「纏向矢塚古墳」と「東田大塚古墳」をご紹介します。
纏向矢塚古墳
纏向古墳群
纏向古墳群には最古の巨大前方後円墳とされる箸墓古墳と、それより古い5基の前方後円墳が点在します。うち2基は箸墓型前方後円墳、3基は纏向型前方後円墳です。
桜井市立埋蔵文化財センターに展示されている纏向遺跡の模型です。中央下に箸墓古墳とホケノ山古墳、左上にその他の古墳が集まっています。
箸墓型前方後円墳は、円丘部に先端部を撥型に開く、長三角形の前方部を持つ古墳です。
纏向型前方後円墳は、前方部が低く短く、墳丘全長と後円部・前方部それぞれの長さが3:2:1の比となることが特徴です。
こちらの記事では箸墓型前方後円墳の「纏向勝山古墳」をご紹介しました。
纏向矢塚古墳
纏向矢塚古墳は、纏向勝山古墳のすぐ南にある纏向型前方後円墳です。被葬者は不明。
纏向勝山古墳から見た纏向矢塚古墳です。
南へ90mほどの場所に位置します。
全長は96mで後円部はやや東西に長い楕円形で前方部34m、後円部径62mの古墳です。
埴輪、葺石はありません。周濠は後円部のみで地形に合わせて前方部に向かう途中で途切れ、後円部南側では堀削直後にブロック状の盛土が築かれていました。
矢塚古墳(墳丘墓)
全長93m以上の前方後円形の墳丘をもつ大型墳墓。発掘調査により後円部は南北約56m、東西約64mとやや東西に長い形態であることが判明しました。周濠状遺構より出土した土器などから、定型化した前方後円墳が出現する以前の3世紀中頃の築造と考えられています。
後円部と前方部長の比率が2:1となる「纏向型前方後円墳」の一例であり、纏向石塚古墳とともに前方後円墳の出現を考える上で重要な墳墓であるといえるでしょう。
纏向矢塚古墳の説明板
埋葬施設は未調査ですが、墳頂に板石が散乱しており、竪穴式石室の存在が想定されています。出土遺物は庄内3式の土師器で、築造年代は3世紀中頃と思われます。
箸墓型前方後円墳と纏向型前方後円墳
箸墓型前方後円墳と纏向型前方後円墳の2種類の前方後円墳は、時代的には纏向型前方後円墳が先行し、箸墓型前方後円墳がそれに続くとされてきました。
しかし、箸墓型前方後円墳の「纏向勝山古墳」の周濠のくびれ部から発見されたヒノキが、年輪年代法で西暦210年までのものと判明しました。
2種類の前方後円墳はいつ築造されたのか?邪馬台国、ヤマト王権との関係性はいかなるものか?今後の調査で明らかにされることを期待しています。
東田大塚古墳
東田大塚古墳は、纏向矢塚古墳より南へ580mほどの場所に位置する箸墓型前方後円墳です。被葬者は不明。
纏向矢塚古墳より見た東田大塚古墳。
大字東田にあるこの古墳は、前方後円墳で全長120m、前方部長50m、後円部径70m前後、前方部を南西に向けています。周濠は前方部では検出されず、後円部のみ痕跡が認められています。墳丘は全て盛土で葺石、埴輪はありません。
階段があり、以前は墳丘上に登れたそうなのですが、今は立ち入り禁止となっていました。
埋葬施設は未調査ですが、墳丘周辺から芝山産の安山岩の板材が少量採集されており、竪穴式の可能性があります。出土遺物としては濠の中から布留0式期新相期の土器や木製品、外堤から壷棺、籠状製品が検出されています。築造年代は3世紀後半と思われます。
墳丘全長約120mの前方後円墳。現在は南西にのびる前方部が大きく削られていますが、纒向遺跡では箸墓古墳に次ぐ墳丘規模をもっています。埋葬施設の内容は不明ですが、古墳築造前後の遺構が確認されており、箸墓古墳とほぼ同時期である3世紀後半頃に築造されたと考えられます。
纒向遺跡ではホケノ山古墳とともに、築造時期が限定できる数少ない古墳の一つであり、出現期の前方後円墳の形態を知ることができる貴重な資料であるといえるでしょう。
東田大塚古墳の解説板
箸墓古墳に次ぐ墳丘規模を持つ古墳です。築造年代は250~290年頃とされ、箸墓古墳とほぼ同時期です。250年頃だとすると卑弥呼の墳墓の可能性もあり、その説を強く押す学者・研究者もいるようです。
東田大塚古墳と向こうに三輪山。美しい眺めでした。
アクセス
纏向矢塚古墳
奈良県桜井市東田264
東田大塚古墳
奈良県桜井市東田187
駐車場はありません。纏向勝山古墳の前にある駐車スペースを利用されると便利です。
最後までお読み頂きありがとうございます。