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神武天皇建国の聖地【鳥見山中霊畤顕彰碑】日本最初の大嘗祭が行われた「まつりのにわ」(奈良県桜井市)

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生まれも育ちも奈良県で、神武東征のドラマを追っているみくるです。
奈良県は、初代天皇である神武天皇が最終的に都を定め、日本の国づくりを始めた、まさに「国のはじまりの地」です。

神武天皇の東征の物語を追う旅は、いよいよクライマックスを迎えます。

前回は、「神武天皇 狭井河之上(さいがわのうえ)顕彰碑」を訪れ、大和平定後の平和な世を築くため、地元の神の娘を后に迎えられた、神武天皇の「国を治めるための礎」築かれた場面を巡りました。武力だけでなく、土地の神との縁(ゆかり)を重視された天皇のロマンスと未来への希望に満ちた決意を感じ、心が温まりました。

戦いと平定の地である「磐余邑(いわれむら)」、そして国の基盤を固める「狭井河之上(さいがわのうえ)」を経て、神武天皇は橿原宮で初代天皇に即位されました。即位後、天皇が最初に行われたのが、「鳥見山(とみやま/とりみやま)」での祭祀です。

今回ご紹介する「神武天皇聖蹟 鳥見山中霊畤顕彰碑」は、東征という鴻業を成し遂げた天皇が、国家の祖先神に最高の感謝を捧げた「大孝(たいこう)の地」を顕彰する碑です。この地は、日本の祭祀の根幹である「大嘗祭」の起源とされる、建国の精神の聖地なのです。

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神武東征の感謝と祭祀の起源「神武天皇 鳥見山中霊畤顕彰碑」

プロローグ:武力による勝利の後に訪れた統治の原点

神武天皇はついに東征の鴻業を成就し、橿原宮で初代天皇として御即位されました。長きにわたる戦いは終わり、武力による大和平定は達成されました。

しかし、天皇を襲ったのは、次の外敵ではありませんでした。それは「この新国家を、これから何によって統治していくべきか」という、建国者としての根本的な問いでした。武力によって得た勝利の上で、天皇の支配の正当性をどこに求めるのか。

神武天皇はただ一人、この国の統治の礎を、戦いの力ではなく、祖先神への究極の感謝(大孝)と、清浄な祭祀に置くという、重大な決断を下されます。

今回ご紹介する「神武天皇聖蹟 鳥見山中霊畤顕彰碑」は、神武天皇が「祭政一致(さいせいいっち)の国」の礎を築くため、鳥見山の山中に「霊畤(まつりのにわ)」を設け、日本で最初の本格的な大嘗祭の儀式を行った場所に建っています。

神武天皇聖蹟 鳥見山中霊畤顕彰碑

聖蹟の由来:「霊畤」と「大孝」が意味するもの

「神武天皇聖蹟 鳥見山中霊畤顕彰碑」の碑文

神武天皇聖蹟 鳥見山中霊畤顕彰碑」が記念する出来事は、『日本書紀』の神武天皇4年(即位後4年)の条に記されています。

神武天皇聖蹟 鳥見山中霊畤顕彰碑

顕彰碑の裏面には、その由来が次のように刻まれています。

神武天皇御東征ノ鴻業ヲ遂ケサセ給ヒ橿原宮二御即位ノ後四年二月鳥見ノ山ノ中ニ靈時ヲ立テテ皇祖天神ヲ祭ラセラレ大孝ヲ申ベ給ヘリ聖蹟ハ此ノ地附近ニアリト傳ヘラル

神武天皇聖蹟 鳥見山中霊畤顕彰碑の裏面に刻まれた碑文

この碑文は、「神武天皇は東征という大きな事業を成し遂げ、橿原宮で即位された後、四年二月に鳥見山の山中に霊畤(まつりのにわ)を設け、皇祖天神を祀り、最高の孝行(大孝)を捧げた。その聖蹟はこの付近にあると伝えられる」という意味です。

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神々に捧げられた最高の孝行「大孝」

碑文の中でも最も重要な言葉が「大孝(たいこう)ヲ申ベ給ヘリ」です。

神武天皇は、東征という大事業が成功し、平和な国を築けたのは、自らの力だけでなく、皇祖(国家の祖先神)である天神の加護によるものだと考えました。その大恩に報いるため、私心を離れた最高の感謝と奉仕の心、すなわち「大孝」を捧げたのです。

等彌神社の境内に建つ「大孝」と刻まれた石碑

等彌神社の境内には、この建国の精神を象徴する「大孝」と刻まれた石碑が別に建っており、この地の重要性を今に伝えています。

等彌神社の境内に建つ「大孝」と刻まれた石碑

日本の祭り「大嘗祭」の起源

この鳥見山中の「霊畤(まつりのにわ)」での祭祀は、後の日本の祭り、特に天皇即位後の新嘗祭である「大嘗祭(だいじょうさい)の起源とされています。

「鳥見山霊畤について」の説明板

戦乱を乗り越えた天皇が、この清浄な祭場で神々に感謝を捧げ、「祭祀をもって国を治める」という日本の根本的な姿勢を確立した、歴史的な出発点なのです。

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「山中」の霊畤と「麓」の顕彰碑:聖地への入口

「神武天皇聖蹟 鳥見山中霊畤顕彰碑」には「鳥見山中」とありますが、この碑自体は鳥見山の山中ではなく、麓に近い場所に建てられています。

等彌神社の境内案内図

これは、顕彰碑が、山中の聖地へ登拝する参拝者に向けて、その聖蹟の由緒を伝える「記念碑」としての役割を担っているためです。

そして、碑が指し示す実際の「霊畤(まつりのにわ)」、すなわち神武天皇が祭祀を行ったとされる場所は、この麓から山中へと続く登拝道を登った山頂にあります。

霊畤の石碑

この顕彰碑は、日本の精神的な原点である「霊畤」へと誘う、最初の扉となっているのです。

等彌神社は、その鳥見山を御神体とする神社であり、境内から山中にある霊畤拝所へと続く登拝道が整備されています。

等彌神社の境内から霊畤拝所へと続く登拝道

標高約245mの山道を登ることで、神武天皇が立った清浄な地に触れ、建国の精神を体感することができるでしょう。

等彌神社の境内から霊畤拝所へと続く登拝道

登拝の様子は、次の記事でご紹介します。

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桜井市内の神武天皇聖蹟を巡る

桜井市内には、神武天皇東征のクライマックスを飾る聖蹟顕彰碑が3カ所あります。東征の各段階を象徴するこれらのスポットを、セットで巡るのがおすすめです。

  • 磐余邑顕彰碑:知略で大和の有力豪族を破り、勝利を決断した戦略の舞台
  • 狭井河之上顕彰碑:山の辺の道沿い。神武天皇が後の皇后となる女性と出会ったロマンスの舞台
  • 鳥見山中霊畤顕彰碑:(本記事)等彌神社の裏山。大和平定後、神武天皇が平和と統一を感謝して祭祀を行った建国の祭場

緊迫の「磐余邑」(戦略)から、ロマンスの「狭井河之上」(縁結び)、そして感謝の「鳥見山中霊畤」(祭祀)へと巡ることで、神武天皇が武人・戦略家・王として成長し、建国を成し遂げるまでの壮大なドラマを追体験することができます。

まとめ:神話の旅を終える場所

神武天皇の聖蹟巡りは、この鳥見山中霊畤顕彰碑をもって、一つの完成を迎えます。

「戦い」の跡地である磐余邑、「統治」の基盤である狭井河之上、そして「感謝と平和」の象徴である霊畤。

奈良・桜井の地を巡る際は、日本の歴史と祭祀の原点に触れ、神武天皇が捧げた「大孝」の心をぜひ感じてみてください。

「神武天皇聖蹟 鳥見山中霊畤顕彰碑」へのアクセス

奈良県桜井市河西79-3

等彌神社の二の鳥居前に、「神武天皇聖蹟 鳥見山中霊畤顕彰碑」の案内板が設置されています。

等彌神社の二の鳥居
等彌神社の二の鳥居前設置された「神武天皇聖蹟 鳥見山中霊畤顕彰碑」の案内板

この道を進むと石段が見えて来ます。

「神武天皇聖蹟 鳥見山中霊畤顕彰碑」へと続く石段

石段を上ると顕彰碑が建っています。

「神武天皇聖蹟 鳥見山中霊畤顕彰碑」が建つ様子

「奈良県道37号桜井吉野線側」から直接アクセスすることもできます。

等彌神社の駐車場

等彌神社の駐車場が利用できます。無料です。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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