景色を楽しみながら歌碑を訪ね歩き、いにしえの歌人の思いに触れるのが好きなみくるです。
日本最古の道「山の辺の道」には38基もの歌碑が建てられています。全部を見つけたいと思っています。

今回は、観光パンフレット「山の辺の道」に掲載されている中から、31番の伊須気余理比売命の歌碑をご紹介します。
伊須気余理比売命は、大神神社の御祭神の大物主大神の娘で、神武天皇の皇后です。息子たちに危険が迫っていることを知らせるために詠まれた歌です。
狭井河よ 雲立ち渡り 畝傍山
狭井川と伊須気余理比売命の物語
今回ご紹介する歌碑は、山の辺の道沿いにある「月山記念館」の前に建っています。

月山記念館の近くには、歌に詠まれている「狭井川」が流れています。

狭井川は、奈良県桜井市三輪を流れる川で、奈良盆地の南東部に位置する三輪山の麓を流れています。
神武天皇の皇后である伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと)の家がこの川のほとりにあったとされ、神武天皇が彼女を訪れた際に、川辺にヤマユリが多く咲いていたことから「佐韋河(狭井川)」と名付けられたと伝えられています。※「さゐ」はヤマユリの古名です。
こちらの記事では、狭井川と、近くの出雲屋敷(狭井川のほとり、神武天皇聖跡 狭井河之上顕彰碑)に伝わる、神武天皇と伊須気余理比売命の出会いの物語をご紹介しています。
『古事記』に出てくる「狭井川」を詠んだ歌
伊須気余理比売命が詠んだ歌
今回ご紹介する、伊須気余理比売命が詠んだ歌は、『古事記』に出てくる歌です。


(原文)
佐韋賀波用 久毛多知和多理
宇泥備夜麻
許能波佐夜藝奴 加是布加牟登須
(読み下し)
狭井河よ 雲立ち渡り
畝傍山
木の葉騒ぎぬ 風吹かむとす
『古事記』中巻 伊須気余理比売命
揮毫者 月山 貞一
(現代語訳)
狭井川の方からずっと雨雲が立ち渡り、畝傍山では木の葉がざわめいています。
今にも大風が吹こうとしていますよ。
この歌は、単なる自然描写の歌ではなく、伊須気余理比売命の息子たちに対する切迫した警告が込められた歌として、『古事記』に記されています。

歌が詠まれた背景
この歌が詠まれたのは、神武天皇が崩御された後のことです。
神武天皇崩御後、伊須気余理比売命は、神武天皇と先妻の子である当芸志美美命に妻として迎えられます。しかし、当芸志美美命は、伊須気余理比売命とその間に生まれた弟たち(後の綏靖天皇など)を殺害し、皇位を奪おうと企てます。
この当芸志美美命の企みを知った伊須気余理比売命は、自らの息子たちに危険が迫っていることを知らせるために、この歌を詠みました。
歌に込められた意味
この歌は、一見すると美しい自然の風景を詠んだ叙景歌のように思えますが、その裏には深遠なメッセージが隠されています。
「狭井河よ 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉さやぎぬ」は、まさに嵐の前の静けさ、あるいは不穏な気配が迫っている情景を描写しています。狭井川や畝傍山は、伊須気余理比売命たちがいる大和の地そのものであり、そこに不穏な雲が立ち込め、木の葉がざわめく様子は、まさに危機が近づいていることを示唆しています。
「風吹かむとす」は、この歌の核となる警告です。単に「風が吹くだろう」という意味ではなく、「悪いことが起こるだろう」「危険が迫っている」という、不穏な出来事の前触れを暗示する隠喩(暗喩)として使われています。
伊須気余理比売命は、直接的な言葉で息子たちに危険を伝えることができなかった(あるいは、あえて歌という形で伝えた)ため、自然現象に託してその危機を知らせたのです。息子たちはこの歌の意味を理解し、当芸志美美命の企みを阻止することに成功します。
この歌は、古代の日本人が自然現象の中に様々なメッセージや兆候を読み取っていたこと、そして歌が単なる感情表現だけでなく、情報伝達の手段としても用いられていたことを示す貴重な例とされています。
狭井川の説明板
狭井川に、この歌が記された説明板が建っていました。

見えにくくなっていますが、次のように書かれているようです。
狭井河よ 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす
当社の御祭神・大物主神の御子・伊須気余理比売命 の御住居は狭井川のほとり、この地域にあったと伝える(古事記) 。
狭井とは山百合のことであり、初夏には一帯に可憐な花を咲かせる。またこの地は古来より「出雲屋敷」といわれ、我が国の建国にかかわる極めて重要な場所である。
大神神社
「我が国の建国にかかわる極めて重要な場所」と書かれているように、伊須気余理比売命は、初代・神武天皇の皇后で、二代目の綏靖天皇の母親です。
神武天皇が伊須気余理比売命との出会いを詠んだ歌
「月山記念館」から北へ10mほど歩くと、石畳と石造のベンチがある小広場があります。

小広場の石垣の上に、神武天皇が伊須気余理比売命と一夜を過ごしたことを、後に宮中に迎え入れた際に回想して詠んだ歌の歌碑が建っています。
月山記念館について
伊須気余理比売命の歌碑が建つ「月山記念館」は、奈良県桜井市にある日本刀の刀工「月山」一門の歴史と作品を展示している記念館です。

三輪山の麓、狭井川のほとりに位置し、日本刀の鍛錬場も併設されています。

「月山」は、奥州出羽(現在の山形県)の月山に発祥した刀工の一派で、鎌倉時代から続く非常に長い歴史を持つ流派です。その伝統と技は、代々受け継がれてきました。
月山流の日本刀の大きな特徴は、刀身に現れる独特の木目のような「綾杉肌」と呼ばれる模様です。これは月山鍛冶ならではの秘伝の技であり、他の流派では見られないものです。
明治時代の廃刀令によって多くの刀工が廃業する中、月山一門はその伝統を守り続け、現代に至るまで脈々とその技を継承しています。
人間国宝に認定された故・二代目月山貞一氏をはじめ、月山貞利氏(奈良県指定無形文化財保持者)、月山貞伸氏がその伝統を受け継いでいます。

開館日: 3月~11月の土曜日のみ(8月は休館)
開館時間: 10:00~16:00
入場料: 無料
電話番号: 0744-42-3230

古刀期の月山から、人間国宝である故・二代目月山貞一氏、現在の月山貞利氏、月山貞伸氏までの歴代刀工の作品が展示されています。
刀剣の制作工程に関する説明や映像が展示されており、日本刀がどのように作られるのかを知ることができます。
記念館に併設されている鍛錬場では、実際に刀剣が鍛えられている様子を見学できる場合もあります(事前に確認が必要です)。
伊須気余理比売命と古代製鉄
伊須気余理比売命は、『古事記』では後に、媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスケヨリヒメ)とされ、『日本書紀』では媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)とされ、古代製鉄(刀剣)および銅精錬(銅鐸=鈴)を暗示するタタラの名を持ちます。
「たたら」は、日本古来の製鉄法であり、特に日本刀の材料となる玉鋼を生み出す技術です。 ヒメタタライスケヨリヒメが初代天皇の皇后であるという立場を考えると、当時の権力や軍事力の象徴であった刀剣の生産に関わる技術を名前に持つことは、非常に意味深いと解釈できます。
父親の大物主大神は、水神や蛇神、そして金属器生産の神としての性格も持ち合わせていると解釈されることがあります。この血筋と、ヒメタタライスケヨリヒメの「タタラ」の名が結びつくことで、古代の金属生産技術、特に製鉄と刀剣作りとの関連が強く示唆されます。
こういったことから、この地に「月山記念館」が建てられたのかもしれません。伊須気余理比売命の歌碑が建っていることも、偶然ではないように思えて興味深いです。
揮毫者の月山 貞一氏について
桜井市にある歌碑は、昭和46年当時の桜井市長と桜井市出身の文芸評論家、保田與重郎氏を中心に「心ある人々に記紀万葉のふるさとと桜井の歴史を体感し楽しんでいただこう」という思いで呼びかけられ多くの文化人に賛同をいただき揮毫されたものです。
初代 月山 貞一
月山貞一(がっさん さだかず)は、日本の刀剣史上、非常に重要な位置を占める刀工の名跡です。
初代 月山貞一〈天保7年(1836年) – 大正7年(1918年)〉は、奥州出羽(現在の山形県)に源を発する月山一門の伝統を継承し、大阪を拠点に活動しました。
特に、月山家代々の秘伝である刀身に現れる独特の木目模様「綾杉肌(あやすぎはだ)」の鍛錬を得意としました。 また、刀身に施される彫刻(刀身彫刻)の名手としても知られ、緻密で格調高い「月山彫り」を大成させました。 明治時代の廃刀令という刀工にとって厳しい時代にあっても、その技を守り続け、日本刀の伝統継承に尽力しました。
二代目 月山 貞一
二代目 月山貞一〈明治40年(1907年) – 平成7年(1995年)〉は、初代月山貞一の孫であり、父である月山貞勝(さだかつ)から作刀技術を学びました。
祖父である初代貞一の技を受け継ぎ、月山家伝統の綾杉鍛えはもちろんのこと、日本刀の五箇伝(大和、山城、備前、相州、美濃)すべての技法を習得する類稀なる才能を持っていました。
昭和41年(1966年)に祖父の名を継いで二代目月山貞一を襲名。 昭和46年(1971年)には、その優れた作刀技術が認められ、重要無形文化財「日本刀」保持者(通称:人間国宝)に認定されました。
昭和40年(1965年)に奈良県桜井市茅原に月山日本刀鍛錬道場を開設。晩年まで国内外で精力的に活動し、社寺への奉納刀を制作するなど、日本刀文化の発展に大きく貢献しました。
歌碑を揮毫されたのは、二代目の月山貞一氏です。
月山記念館へのアクセス
奈良県桜井市茅原228-8
JR三輪駅から「山の辺の道」を北へ徒歩約15分
こちらの記事では、山の辺の道に建つ神武天皇の歌碑をご紹介しています。今回ご紹介した歌碑のすぐ近くに建っています。
神武天皇が東征の後、橿原の地で即位し、大久米の進言によって、狭井川のほとりで出会った伊須気余理比売命と一夜を過ごしたことを、後に宮中に迎え入れた際に回想して詠んだ歌です。
最後までお読み頂きありがとうございます。