【山の辺の道の歌碑めぐり】檜原の神聖さを讃えた歌~柿本人麻呂歌集(奈良県桜井市)

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景色を楽しみながら歌碑を訪ね歩き、いにしえの歌人の思いに触れるのが好きなみくるです。

日本最古の道「山の辺の道」には38基もの歌碑が建てられています。全部を見つけたいと思っています。

観光パンフレット「山の辺の道」

今回は、観光パンフレット「山の辺の道」に掲載されている中から、29番の柿本人麻呂かきのもとひとまろの歌碑をご紹介します。檜原の神聖さを讃えた一首です。

この歌に続けて、『万葉集』に収載されている「檜原の土地の神を慰める歌」も合わせてご紹介しています。

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いにしへにありけむ人もわが如か

今回ご紹介する柿本人麻呂かきのもとひとまろの歌碑は、奈良県桜井市三輪の井寺池いでらいけの近くに建っています。

井寺池周辺案内図

井寺池いでらいけは、西に大和平野を、東に三輪山みわやまを一望できるビューポイントとして知られています。

井寺池から望む三輪山(桜)

井寺池の南側の通称「檜原坂ひばらざか」が左に折れた脇に、三輪山を背にして建っています。

檜原神社から西へ延びる道(檜原坂)

檜原神社ひばらじんじゃの鳥居から南に延びる道が檜原坂です。

井寺池の近くに建つ「柿本人麻呂歌集」の歌碑

(原文)
古尓 有險人母 如吾等架
弥和乃桧原尓 挿頭折兼

(読み下し)
いにしへに ありけむ人も わが如か
三輪の桧原に 
挿頭折りけむ 
万葉集 巻7-1118 柿本人麻呂
揮毫者 吉田富三

(現代語訳)
昔いたという人も私のように、三輪の檜原で插頭かざしにしようと檜の枝を折ったことだろう 。

(語義)
挿頭(かざし)…古代、草木の花や枝などを髪に挿したこと、または、挿した花や枝。平安時代以後は、冠に挿すことにもいい、多く造花を用いた。幸いを願う呪術的行為が、のち飾りになったものという。
三輪(みわ)の桧原(ひばら)…奈良県桜井市三輪にあった檜(ひのき)の原のことで、今の三輪山周辺。

檜の枝を插頭にする行為は、この時代には単なる髪飾りとしてではなく神聖な三輪の地の檜の霊力を自身の身体に取り込もうとした呪術的な行為でした。
自分と同じように、昔から多くの人々が三輪の檜原の霊力を授かろうとしたのだろうと、檜原の神聖さを讃えた一首となっています。

檜は大昔の人々がこの木をこすり合わせて火をつけたことから「火(ひ)の木(き)」と呼ばれるようになったそうです。

歌碑を揮毫された吉田富三よしだとみぞう氏(1903-1973)は、癌研究の先駆者として世界的に有名な医学者・病理学者です。長崎医科大学教授、東京大学医学部長[などを歴任されました。元癌研究会研究所長。文化勲章受賞者。

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『万葉集』巻七「葉を詠める」

今回ご紹介している歌は、観光パンフレット「山の辺の道」や、桜井市観光協会さんのサイトでは、柿本人麻呂の歌として紹介されているのですが、正式には、「柿本人麻呂歌集」の歌です。

柿本人麻呂歌集とは

柿本人麻呂と他の人達の歌をまとめた歌集を指します。成立は人麻呂自身によるものか、後に誰かが編纂して歌の手引書のような教本にした言われもあり、はっきりしたことがわかっていません。

『万葉集』では、「柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ」と左注が付けられています。

『万葉集』巻7-1118歌は、「葉を詠める」に分類された歌のうちのひとつです。

作者は不明ですが、次の巻7-1119の歌の後に付けられた左注によると、この巻7-1118の歌と巻7-1119の歌の二首は柿本人麻呂歌集に収録されていた歌とのことです。人麻呂自身の作か、あるいは朝廷の誰かが詠んだ歌を人麿が記録したものなのでしょう。

巻7-1119の歌をご紹介します。

(原文)
徃川之 過去人之  手不折者
裏觸立 三和之桧原者

(左注)
右二首柿本朝臣人麻呂之歌集出

(読み下し)
行く川の 過ぎにし人の 手折らねば
うらぶれ立てり 三輪の桧原は

万葉集 巻7-1119 柿本人麻呂歌集

(現代語訳)
流れゆく川のように去って行った人が手折らないので、寂しそうに立っているよ。三輪の檜原は。

(語義)
うらぶれる…しょんぼりとする
過ぎにし人…亡くなった人。万葉集の時代には直接「死」という言葉を言うことを嫌ってこのような遠回しの表現がよくなされた。

手折る人がいなくなってうらぶれてしまった三輪の檜原を詠った一首です。先の巻7-1118の歌の続きとして特定の個人ではなく、広く過去の人を念頭に置いて詠まれた歌ということでしょうか。

もう手折る人も少なくなって、うらぶれて立つ三輪の檜原の土地の神を慰めるための呪術歌だったと考えられます。

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檜原坂に建つ山の辺の道の案内図

檜原の神聖さを讃えた歌碑(『万葉集』巻7-1118)の横に、山の辺の道の案内図が建っていました。分かりやすい解説があったので、引用させて頂きます。

檜原坂に建つ山の辺の道のご案内
檜原坂に建つ山の辺の道の案内図

山の辺の道のご案内

山の辺の道は、三輪から奈良へと通じる上古の道。
大和平野には、南北に走る上・中・下ツ道の官道があり、それぞれ7世紀の初め頃に造られた。

上ツ道のさらに東にあって、三輪山から北へ連なる山裾を縫うように伸びる起伏の多い道が、山の辺の道である。

現在、その道をはっきりと跡づけることはできないが、歌垣で有名な海柘榴市から三輪、景行、崇神天皇陵を経て、石神から北上する道と考えられている。

写真左手に延びている道は、井寺池の上池の下池を仕切る堤で、川端康成揮毫の歌碑などが建っています。

檜原坂と井寺池の堤

当記事でご紹介している「山の辺の道」の観光パンフレットは、桜井市観光協会さんのサイトからダウンロードできます。郵送もして頂けます。

山の辺の道の見どころは、当サイトでも順にご紹介しています。
「山の辺の道」関連投稿一覧

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『万葉集』巻7-1118の歌碑へのアクセス

奈良県桜井市三輪1330

駐車場はありません。
山の辺の道沿いに建つ檜原神社ひばらじんじゃからは、往復10分ほどの距離です。周辺には、他にも歌碑が建っています。

こちらの記事では、東山魁夷揮毫の歌碑をご紹介しています。中大兄皇子(後の天智天皇)が、大和三山を詠んだ有名な歌です。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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