いにしえの歌碑めぐり【僧正遍照と小野小町の贈答歌】美男美女の粋な掛け合い(厳島神社の歌碑)

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産まれも育ちも奈良県のみくるです。

『万葉集』が編纂された時代に政治の中心であった奈良県には、その地にゆかりのある多くの万葉歌碑が建っています。そんな奈良県を天理市観光協会さんの観光ガイド「いにしえの歌碑めぐり」を見ながら巡っています。

山の辺の道には柿本人麻呂、松尾芭蕉だけでなく、小野小町や僧正遍昭、龍王山城の武将・十市遠忠など天理にゆかりの深い偉人たちの歌碑がたくさん建てられています。これらを訪ね歩き、制覇する…なんていうのも天理のテーマウォーキングの楽しみです。

いにしえの歌碑めぐり | 天理観光ガイド・天理市観光協会

サイトを見て、私も天理にゆかりの深い偉人たちの歌碑を訪ね歩き、制覇したいと思いました。

天理市布留町の厳島神社

今回ご紹介する9番の「厳島神社境内の歌碑」には、僧正遍照小野小町の贈答歌が刻まれています。

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僧正遍照と小野小町の贈答歌

厳島神社(天理市布留町)

奈良県天理市には、厳島神社がいくつかあります。今回ご紹介する歌碑は、布留町ふるちょうにある厳島神社いつくしまじんじゃの境内に建っています。石上神宮の参道入口より100m余り北側にある神社です。

布留町の厳島神社については、こちらの記事でご紹介しています。

和歌の名人・僧正遍照

厳島神社の付近一帯には良因寺りょういんじという、僧正遍照そうじょうへんじょうが一時居を構えていたお寺がありました。

石上神宮から、厳島神社に向かう途中にあった説明板です。

「石上神宮並びに良因寺絵図」の説明板

僧正遍照は俗名を良岑宗貞よしみねのむねさだといい、桓武天皇の孫という高貴な生まれでした。第54代仁明にんみょう天皇の蔵人頭を務めましたが、天皇の崩御後、世をはかなんで出家して天台宗の僧侶となり、僧正(僧官の最高位)にまでなりました。

『古今和歌集』仮名序において、紀貫之が「近き世にその名きこえたる人」として名を挙げた「六歌仙」の一人です。また、藤原公任の『三十六人撰』に載っている平安時代の和歌の名人36人の総称である「三十六歌仙」の一人でもあります。

出家前に詠んだ情感あふれる歌が『百人一首』に選定されています。

女流歌人・小野小町

小野小町おののこまちは、平安時代前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人です。日本ではクレオパトラ、楊貴妃と共に小野小町が「世界三大美人」の一人に数えられ、絶世の美人と言われています。

小野篁おののたかむらの孫であるとか諸説がありますが、正確な経歴は分かっていません。説明板には「淳和仁明天皇に仕えた女官」とあります。

『百人一首』に選定されている歌がよく知られています。

花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに

百人一首 9番/小野小町

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厳島神社境内の歌碑

厳島神社境内の歌碑には、僧正遍照と小野小町の贈答歌が刻まれています。

厳島神社境内の歌碑

『後選和歌集』巻17 雑3にある歌です。

いその神といふ寺にまうでて、日の暮れにければ、夜明けてまかり帰らむとて、とゞまりて、「この寺に遍昭侍り」と人の告げ侍ければ、物言ひ心見むとて、言ひ侍ける

岩の上に 旅寝をすれば いと寒し 
苔の衣を 我に貸さなん

後選和歌集 巻17-1195 小野小町

かへし 遍昭

世をそむく 苔の衣は たゞ一重
貸さねば疎し いざ二人寝ん

後選和歌集 巻17-1196 遍照

(現代語訳)
小野小町は、石上寺に詣でた帰り、もう日が暮れてしまったので、夜明けに帰ろうということになって一泊することに。この寺に遍昭がいることを告げる者があったので、一夜の宿を乞うた。

岩の上の旅寝はとても寒いわ。あなたの苔のお衣を、わたしに貸してくださいませ。

遍照の返歌

世を捨てた苔の衣はひとつきり。でも貸さなかったら薄情というもの。いっそふたりで寝ましょうか。

粋というかなまめかしいというか、、、小野小町は絶世の美女と言いますが、遍照も美男で人柄も良く、女性に人気があったそうです。

厳島神社境内の歌碑(僧正遍照と小野小町)

『後撰和歌集』は『古今和歌集』の50年後くらいの編纂で(950年代)、この贈答歌が、『大和物語』の遍昭と小野小町のお話に発展したと考えられます。

『大和物語』168段「良少将」(遍昭のこと。彼の出家にまつわる物語)では、返歌だけして遍昭は逃げ出してしまいます。

大和物語では舞台が清水寺に変わっています。遍照が奈良に住んでいたのは、石上神宮があったからなのでしょうか。その理由を知りたくなりました。

「岩の上」は「石上寺」を掛けての表現です。この歌が詠まれた良因寺は、かっては石上寺と呼ばれる寺域4000坪の大寺でした。
「苔の衣」は遍昭がかつて深く慕った深草帝(仁明天皇)の喪明けに詠んだ、「苔の袂」と僧衣をたとえた有名な歌を踏まえています。

みな人は 花の衣に なりぬなり
苔のたもとよ かはきだにせよ

(現代語訳)
みなさんは花の衣に脱ぎかえたとか。わたしの僧衣の苔の袂はかわかぬまま。せめて涙がかわいてほしいものです。

遍照と小町は、同じ帝(仁明天皇)に仕えていたこともあり、京にいる時から親しくしていたのでしょう。小町は遍照が石上寺にいると聞きわざわざ訪ねて来たと思われます。

ある秋の日に、地元奈良で美男美女の粋な掛け合いを知りました。

厳島神社(天理市布留町)へのアクセス

奈良県天理市布留町90

駐車場はありません。
石上神宮より北へ徒歩6分ほどです。

こちらの記事で石上神宮をご紹介しています。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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