古墳や神社仏閣を訪ね歩くのが好きなみくるです。
皆さんは、空高く舞い上がる「金の鵄(とび)」の物語をご存知でしょうか。 私の住む奈良県橿原市では、市役所分庁舎が入る複合施設「ミグランス」が、その学名にちなんで名付けられるなど、今も初代・神武天皇の伝承が息づいています。
今回から始まる新シリーズでは、日本最古の正史『日本書紀』を紐解きながら、神武天皇が歩まれた足跡を辿ります。
第1回は、日向(宮崎)を立ち、苦難の末に大和の地を目指した「神武東征」の物語の前編です。
初代・神武天皇「記述編」東征の物語(前編)
天照大御神の血を引く「天孫」として
物語を紐解く前に、神武天皇というお方の「お名前」と「ルーツ」について少し触れておきたいと思います。
神武天皇の生前のお名前(諱・いみな)は、「神日本磐余比古天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)」とおっしゃいます。 「神聖な日本の、磐余(奈良県桜井市から橿原市付近)を治める立派な男性」という意味が込められた、非常に力強く美しいお名前です。
そして、なぜ彼が遠く日向の地から大和を目指したのか。その理由は彼の血筋にあります。
神武天皇は、太陽の神である「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」の直系の子孫、すなわち「天孫(てんそん)」です。
天照大御神が孫の「ニニギノミコト」を地上に降臨させた際、「この国は私の子孫が治めるべき国である」という天命を授けられました。神武天皇はその約束を果たすべく、最もふさわしい「国の中心」を探し求めて旅に出られたのです。
理想の地を求めて:日向からの旅立ち
『日本書紀』によれば、神武天皇(神日本磐余比古天皇)が東征を決意されたのは、日向の地におられた時でした。
「天孫が降臨してから百七十万年あまり。未だに辺境の地では争いが絶えない。ならば、東の方にある良い土地へ行き、都を造って天下を治めよう」
それは、単なる権力の拡大ではありませんでした。
天照大御神から受け継いだ「太陽のような慈しみ」をもって、六合(くにのうち)を兼ねて一つの家族のように暮らせる平和な国を造りたい――その志が、すべての始まりだったのです。
兄・彦五瀬命との別れと「太陽」への誓い
旅は決して平坦なものではありませんでした。 難波(大阪)から生駒山を越えて大和へ入ろうとした軍を待っていたのは、地元の有力者・「長髄彦(ながすねびこ)」による激しい抵抗でした。
この孔舎衛坂(くさえのさか)の戦いで、天皇の長兄・「彦五瀬命(ひこいつせのみこと)」は敵の矢に当たって負傷してしまいます。その時、兄はこう叫びました。
「私は日に向かって戦った。だから負けたのだ。これからは日を背にして(東から西へ)戦おう」
太陽の神・天照大神の子孫でありながら、太陽(東)に向かって戦った。その謙虚な反省を胸に、一行は紀伊半島を迂回する決断をします。
しかし、彦五瀬命は傷が癒えず、和歌山の地でついに息を引き取られました。

【関連の巡礼記】
私が以前訪れた、和歌山にある兄君をお祀りする神社と御陵の記録です。神武天皇の深い悲しみと、兄の遺志を継ぐ決意が今も静かに漂っています。
天の導き:八咫烏と険しき熊野路
兄・彦五瀬命との悲しい別れの後、一行はさらに険しい紀伊の山へと足を踏み入れます。しかし、そこには荒ぶる神の毒気が立ち込め、軍勢は皆倒れ、進むことも退くこともできない窮地に陥りました。
その時、天照大神が夢に現れ、一振りの剣(布都御魂)を授けられたことで、天皇は辛うじて危機を脱します。しかし、熊野の山々はあまりに深く、道は途絶えてしまいました。
ここで『日本書紀』は、天からの新たな導きを記しています。
「今、頭八咫烏(やたがらす)を遣わそう。これを導き手として、山の中をゆくがよい」
神武天皇の前に、悠々と翼を広げた大きな鴉が現れました。それは天からの使い、「八咫烏(やたがらす)」でした。
天皇は、暗く深い森の中でこの鴉を仰ぎ見て、こう仰いました。
「この烏の飛ぶ方へ進もう。天の神が遣わされた道案内に従うのだ」
八咫烏は、険しい峰を越え、深い谷を飛び、常に軍勢の先を行きました。 道なき道を進む兵たちの目には、空を舞うその黒い翼が、何よりも確かな「希望の光」に見えたことでしょう。
こうして八咫烏に導かれ、一行は険阻な熊野路を突破。ついに大和の入り口である宇陀(うだ)の地、エ(え)の県(あがた)へと辿り着くことができたのです。
迷いの中でも、天の導きを疑わずに信じ抜く。その神武天皇の誠実な心が、大和への扉をこじ開けたのかもしれません。
大きな鴉が空を舞い、険しい熊野の山々を先導します。天皇はその導きを信じ、一歩一歩、険しい崖を越え、谷を渡りました。そのひたむきな姿は、神々をも動かしたのかもしれません。
宇陀での祈りと天の導き:勝利を確信した神秘の儀式
熊野の峻険な山々を越え、八咫烏に導かれるようにしてたどり着いたのが、大和の東の玄関口・「宇陀(うだ)」の地でした。
ここで神武天皇は、武力で突き進む前に、最も大切な「神事」を執り行います。それが、今に伝わる「丹生川上(にうかわかみ)」での祈りです。
丹生川の清流に捧げた占いの儀式
『日本書紀』によれば、天皇は天神地祇(てんじんちぎ)にこう祈りました。 「私がこの国を平定できるなら、川に沈めた厳瓮(いつべ/神聖な土器)の中に、魚が酔って浮いてくるように」
すると、どうでしょう。川の中の鮎たちが、まるで木の葉が舞うように水面に浮き上がってきたのです。その光景を目にした兵士たちの士気が、どれほど高まったかは想像に難くありません。
【巡礼の記憶:丹生川上顕彰碑】
山々に囲まれ、清らかな水の流れるこの地に立つ「丹生川上顕彰碑」。
今もなお澄み渡る風の中に、当時の天皇の切実な祈りと、奇跡を目の当たりにした人々の歓声がこだましているような気がします。
八咫烏の導き、その聖地へ
この過酷な道中、常に一行の先頭を飛んでいたのが、太陽の神の使いである八咫烏です。
【巡礼の記憶:八咫烏神社】
宇陀にある八咫烏神社に参拝すると、その凛とした空気に背筋が伸びる思いがします。道に迷い、絶望の淵にあった天皇の軍勢にとって、空を舞うその黒い羽は、どれほどの希望の光だったことでしょう。
八咫烏が示した道は、単なる地理的なルートではありませんでした。それは「新しい国を造る」という志が間違っていないことを示す、天からの力強い肯定だったのだと感じます。
忍坂の血戦と、神籠石の罠
宇陀の険しい峰を越えた軍勢の前に、大和盆地を眼下に望む「忍坂(おさか)」の急峻な坂道が立ちはだかりました。
そこには、岩窟を拠点とし、強靭な体躯を持つ「八十梟帥(やそたける)」の一族が、巨大な「神籠石(じんごいし)」を盾にして待ち構えていたのです。
神武天皇は、力攻めではなく策を講じました。
「宴の場を設け、和を説く。その心の隙を突くのだ」
天皇は兵たちに、料理を運ぶ役を装わせ、背後に剣を隠し持たせました。宴の最高潮、天皇が「いまよ!いまよ!」と高らかに歌い出したのを合図に、兵たちは一斉に剣を抜き、岩窟に潜む敵を掃討しました。
この忍坂の勝利によって、盆地を塞いでいた最後の大きな壁が崩れ去ったのです。
磐余の地に降り立つ
忍坂を抜けると、視界は一気に開けました。
忍坂の巨大な神籠石を背に、一行が目指すのは畝傍山の麓。そこには、数多の犠牲と祈りの果てに辿り着いた、約束の地・「橿原(かしはら)」が待っています。
そこには、三輪山(みわやま)を仰ぎ見、瑞々しい稲穂がたなびく、平穏で豊かな「磐余(いわれ)」の地が広がっています。
これまでの泥沼のような戦いや、山中での飢え、そして失った兄弟たちの顔が天皇の脳裏をよぎります。しかし、目の前に広がる黄金色の風景は、それらすべての苦難を包み込むほどに美しいものでした。
天皇は、自らの軍を整え直し、静かに宣言します。
「こここそが、わが国の中つ国(なかつくに)である」
橿原への凱旋
磐余の地を掌握した一行は、さらに西へと進み、畝傍山(うねびやま)の東南に位置する「橿原(かしはら)」の地を選定します。
長きにわたる「東征」という旅が、ついに「建国」という新たな章へと切り替わる瞬間でした。
まとめ:東征の終焉、そして建国の夜明けへ
険しき山々を越え、忍坂の難所を突破した神武天皇一行。ついに大和盆地・磐余の地へと降り立ったその足跡は、単なる征服の記録ではなく、この国が一つにまとまるための「産みの苦しみ」の軌跡でもありました。
しかし、戦いが終わったわけではありません。
この地を治めるために必要なのは、武力による制圧ではなく、八百万の神々や先住の勢力との「和」と「儀礼」でした。
後編【橿原宮・建国編】へ続く――
次代へと続く「日本」という国の産声が、いよいよ畝傍の山裾に響き渡ります。
初代天皇の即位、そして壮大な建国の儀式の全貌を、次回の記事で詳しく紐解いていきましょう。
最後までお読み頂きありがとうございます。
