前方後円墳発祥の地!【ホケノ山古墳】墳頂より望む箸墓古墳と卑弥呼の里の素晴らしい景観

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古墳を見て歩きながら、古代に想いを馳せるのが好きなみくるです。

今回は卑弥呼のお墓とも言われる箸墓古墳と同じ「纏向遺跡」にある「ホケノ山古墳」をご紹介します。墳丘から箸墓古墳を望める古墳として人気です。

ホケノ山古墳
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前方後円墳発祥の地「纏向遺跡」

纏向遺跡

纒向遺跡まきむくいせきは、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡・複合遺跡で、国の史跡に指定されています。

纏向遺跡には箸墓古墳はしはかこふんなど古墳時代の初め頃に築造された前方後円墳が点在しており、前方後円墳発祥の地と考えられています。

箸墓古墳
箸墓古墳

卑弥呼のお墓?!【箸墓古墳】美しい墳丘を眺めながら古代に想いを馳せる【奈良県桜井市】

纏向遺跡を邪馬台国の中心地に比定する説があり、その規模は唐古・鍵遺跡の約10倍で、東北地方の一大軍事拠点であった多賀城跡よりも大規模であるとされます。

纏向遺跡は東西約2km、南北約1.5kmの古墳時代前期の大きな集落遺跡であり、初期ヤマト政権発祥の地として、あるいは北部九州諸遺跡群に対する邪馬台国、東の候補地として全国的にも著名な遺跡です。この遺跡は三世紀初めに出現し、およそ150年後の四世紀中頃には消滅しています。

ホケノ山古墳の説明板

2008年の時点で遺跡全体の5%が発掘調査されたに過ぎません。今後調査が進むにつれ、様々なことが判明するだろうと期待しています。

纏向古墳群

纏向古墳群には最古の巨大前方後円墳とされる箸墓古墳と、それより古い5基の前方後円墳が点在します。うち2基は箸墓型前方後円墳、3基は纏向型前方後円墳です。

「ホケノ山古墳と纏向古墳群」の解説板

纏向遺跡の中には箸墓古墳を代表として、纏向型前方後円墳と呼ばれる石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳の六基の古式の前方後円墳があります。これらの古墳は、その築造時期がいづれも三世紀に遡るものと考えられており、前方後円墳で構成された日本最古の古墳群といえるでしょう。

ホケノ山古墳の説明板

箸墓型前方後円墳は、円丘部に先端部をばち型に開く、長三角形の前方部を持つ古墳です。

纏向型前方後円墳は、前方部が低く短く、墳丘全長と後円部・前方部それぞれの長さが3:2:1の比となることが特徴です。

纏向型前方後円墳

纒向型前方後円墳とは、弥生時代末葉の弥生墳丘墓と古墳時代初頭の出現期古墳の発掘調査や研究・検討の結果、従来は弥生墳丘墓とみられてきた前方後円形をなす墳墓を、古墳として積極的に評価しようという観点から提唱された概念、およびその墳墓をいいます。

墳丘の築成法は、単純な盛土によるものではなく、板などで枠をつくり、土をそのなかに盛って杵などでつき固める版築に近い手法で造成され、前方部が低く短く、墳丘全長と後円部・前方部それぞれの長さが3:2:1の比となることが特徴です。

纏向古墳群以外にも全国各地に分布します。

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ホケノ山古墳

概要

ホケノ山古墳は奈良県桜井市大字箸中に所在する前方後円墳で、纏向古墳群の中で全体像が判明している唯一の古墳です。

ホケノ山古墳の解説板

発掘調査の結果、ホケノ山古墳は東から延びる微高地に築造された前方後円墳であることが判明しています。

前方部を南東へ向け、全長は約80m、後円部径約55m、前方部長約25mです。周囲は周濠状の溝により区画されていました。全長:後円部径:前方部長の比率が3:2:で、高い後円部に低い前方部が取り付く特徴から「纏向型前方後円墳」のひとつと考えられています。

墳丘は葺石で覆われ、2段以上の段築があり、埴輪はなかったと考えられています。

こちらの記事で、橿原考古学研究所附属博物館で開催されていた令和6年度 重要文化財指定記念 特別陳列「ホケノ山古墳―大和王権の成立へ―」の模様をご紹介しています。

埋葬施設

後円部中央には「石囲い木槨」と呼ばれる木材で造られた郭と、その周囲に多量の河原石を積み上げて石で囲う二重構造を持った埋葬施設が確認されました。

ホケノ山古墳に設置の解説パンフレット1
ホケノ山古墳に設置のパンフレット

「奈良県立橿原考古学研究所附属博物館」で開催されていた「ホケノ山古墳―大和王権の成立へ―」で、想定復元模型が展示されていました。

文章で読んだだけではイメージし辛かったので、大変興味深く見入りました。

出土遺物

出土遺物には、中国製の画紋帯神獣鏡、鉄製刀剣類、鉄製農工具、多量の銅鋤・鉄鋤などがあり、他に石囲い木槨上に並べられたと考えられる土器が確認されました。

ホケノ山古墳―大和王権の成立へ―
ホケノ山古墳―大和王権の成立へ―

築造時期

副葬品などから、古墳築造時期は3世紀中頃、箸墓古墳築造以前と考えられています。

前方部の木棺墓

前方部東斜面に検出された埋葬施設が復元されています。

ホケノ山古墳前方部の木棺墓

長さ2.15m、幅0.45mの組合式木棺の埋葬施設で、墳丘が完成した後に設置されたものと考えられています。

一旦覆われた葺石を取り外して埋葬していることや、土器の年代観から石囲い木槨よりやや新しい3世紀末頃に埋葬されたと考えられています。

横穴式石室

石囲い木槨の西側から、墳丘を再利用して造られた6世紀末頃の横穴式石室が検出されました。石囲い木槨が造られてから約300年後のことです。石室内には凝灰岩製家形石棺が置かれていました。

墳丘再利用という珍しい特徴をもつことから、ホケノ山古墳に対して何らかの「ゆかり」を主張する人物が葬られたのではないかと考えられています。

ホケノ山古墳に設置の解説パンフレット2
ホケノ山古墳に設置のパンフレット

ホケノ山古墳の被葬者

ホケノ山古墳の被葬者は不明ですが、大神神社は豊鍬入姫命の墓とよすきいりひめのみこととしています。

豊鍬入姫命は、第10代崇神天皇の皇女で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性です。名前の「豊(とよ)」から、豊鍬入姫命を邪馬台国における卑弥呼宗女の台与とよ壹與いよ/臺與いよ)に比定する説があります。

このことより、ホケノ山古墳を台与の墓とする説がありましたが、築造年代が箸墓古墳より古いことから否定されるようになりました。

台与を豊鍬入姫命に比定する説は、卑弥呼を倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめのみことに比定することが前提とされることが多いのですが、卑弥呼を倭迹迹日百襲姫命に比定する説は箸墓古墳の研究などから勢いを増しています。

邪馬台国論争と合わせて、箸墓古墳とホケノ山古墳の被葬者についても注目しています。

ホケノ山古墳の墳丘からの眺め

墳丘に自由に登れるようになっています。

ホケノ山古墳の墳丘

墳頂から望む箸墓古墳と纏向古墳群

ホケノ山古墳の墳頂から望む箸墓古墳と纏向古墳群

墳頂から望む三輪山

ホケノ山古墳の墳頂から望む三輪山

卑弥呼の里の素晴らしい景観が楽しめました。

周濠状遺構

墳丘の東側に東屋があり、周濠状遺構の解説板が設置されていまいした。

「ここでは縁石で周濠状遺構の肩のラインを示しています」とあるのですが、縁石がどれなのか分かりませんでした。

ホケノ山古墳の駐車場

ホケノ山古墳には駐車場があり、案内板と解説パンフレットが設置されています。

案内板「史跡 纏向古墳群」

桜井市教育委員会発行の解説パンフレット

さらに詳しい内容を知りたい方は纏向学研究センターのホームページをご参照ください。

こちらの記事で箸墓古墳をご紹介しています。

ホケノ古墳へのアクセス

奈良県桜井市箸中636

専用駐車場あり

駐車場南側の三叉路に案内板が設置されています。

堂ノ後古墳

ホケノ古墳のすぐ西隣にある堂ノ後どうのうしろ古墳へ向かうあぜ道から、ホケノ古墳の反対側の姿が見えました。

堂ノ後古墳から見るホケノ古墳

箸墓古墳を望む墳丘【堂ノ後古墳】纏向地域に点在する古墳を散策して古代に想いを馳せる

堂ノ後古墳も墳丘に登れる古墳です。こちらからも箸墓古墳が綺麗に見えました。ぜひ合わせて巡られて下さい。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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