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【山の辺の道 寄り道案内】朱色の鳥居が誘う「姫丸稲荷神社」を歩く|第25代・仁賢天皇の伝承地

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山の辺の道や古墳が好きで、よく天理市に出かけているみくるです。

皇室に献上された至宝が眠る、竹林の聖域「石上銅鐸出土地」で弥生の祈りに触れたあと、私はそのまま竹林を抜け、もう一つの歴史の層へと向かいました。

今回訪れたのは、「姫丸稲荷(ひめまるいなり)神社」「山の辺の道」北コースから少し外れた高台に位置するこの場所は、単なるお稲荷さんではなく、かつて天皇の宮殿があったとされる特別な場所でした。

12月の冷たく澄んだ空気の中、歩を進めると、そこには色彩豊かな歴史の世界が待っていました。

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【姫丸稲荷神社】夕暮れの「宮の屋敷」へ

12月の空気と「朱の回廊」

石上銅鐸出土地」から導かれるように歩くと、目の前に現れたのは幻想的な赤い鳥居の列。

参拝したのは12月の午後。冬枯れの景色の中で、その「朱色」は驚くほど際立っていました。

写真は少し寒々しく見えるかもしれませんが、現地で感じたのは、冬特有の透明感のある凛とした空気。まるで神域の入り口で、心まで清められるような感覚でした。

石造の鳥居の両側には、狛犬のようなお稲荷の姿がありました。

朱塗りの鳥居が拝殿までずらりと並んでいる様子は、稲荷神社らしい眩しい光景でした。

鳥居のトンネルを抜けると、正面に拝殿が南向きに建っています。

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金網に守られたお稲荷様と「姫丸」の由来

拝殿へと進むと、少し不思議な光景が目に留まりました。

狛犬のように並び、こちらを見つめるお稲荷様の石像。しかし、そのどちらもが厳重な金網の中に収められているのです。
いたずら防止でしょうか、それとも大切に守られている証でしょうか。

姫丸」という可愛らしい名前ですが、実はこの地には、石上神宮(いそのかみじんぐう)」に仕えていた白い狐が、美しい姫に化けてこの地に住んでいたという伝説も残っています。

金網越しに視線が合うと、言葉では言い表せない神秘的な、どこか「守護」の強さを感じさせる独特の雰囲気がありました。

拝殿の後方には、朱塗りの本殿が建っています。

本殿前のお稲荷様も、金網の中に収められていました。

境内から見る鳥居のトンネルもまた壮観でした。

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境内にひしめく「祈りの跡」数多くの境内社と塚

境内を見渡して驚いたのは、その「信仰の密度」す。 境内には驚くほど多くの小さな境内社や、神様の名を刻んだ「塚」が点在していました。

本社本殿の右側(東側)に鎮座するのは「姫玉大明神」です。

「姫玉大明神」の右側(東側)に複数の「お塚」が並んでいます。

こうした「お塚」は明治以降に広まったもので、独自の神名を付けて祀っているものです。ここでは「姫丸大神」「白龍大神」「豊春大神」「高塚大神」などの神名が刻まれています。

そして境内東側に夥しい数の境内社や「お塚」が西向きに並んでいます。

このように祠とお塚が入り混じる境内には、非常に多くの稲荷系の神々が祀られており、稲荷信仰の地として親しまれてる様子が伺えました。

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【平尾山案内記】地名に残る「宮の屋敷」の記憶

拝殿に記された「平尾山案内記」の衝撃

拝殿に掲げられた「平尾山案内記」を読み解くと、この場所が持つ驚くべき正体が浮かび上がりました。

  • 旧地名「宮の屋敷」 この神社を中心とした平尾山一帯は、かつて「宮の屋敷」と呼ばれていました。
  • 親子二代の宮殿跡 『日本書紀』によれば、ここは第24代・仁賢(にんけん)天皇の「石上広髙宮」、そしてその父である市辺押磐皇子の「石上市辺宮」があった場所。当時のわが国の政治・文化の中心地だったのです。

歴史と伝説が交差する「平尾山」

「案内記」をさらに読み進めると、この地がいかに愛されてきたかが分かります。

  • 在原業平との縁: 六歌仙の一人、在原業平はこの地で生まれ、平尾の神の氏子として育ちました。彼の幼名「平尾丸」は、この平尾山から名付けられたそうです。
  • 「姫丸」という名: 一方で、現在は「姫丸稲荷」として親しまれています。この名は、石上神宮に仕える白狐が美しい姫に化けたという伝説や、御祭神への親しみを込めて呼ばれるようになったのかもしれません。

業平のような才知を願う人々や、五穀豊穣を願う人々。時代によって呼び名は変われど、この丘が常に人々の願いの中心であったことが伝わってきます。

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逆走が生んだ黄金色の発見

今回、私は銅鐸出土地から向かったため、神社の「東側」から境内に入りました。

参拝を終えたあと、「この先はどうなっているんだろう?」と西側へ抜けてみて、私は自分の間違いに気づきます。

そこにあったのは、重厚な石造りの一の鳥居

「あ、こっちが本当の入り口だったんだ!」と苦笑いしてしまいましたが、その瞬間に目に飛び込んできた景色のあまりの美しさでした。

12月の低い陽光が、高台にある石の鳥居をオレンジ色に染め上げています。 本来のルートを知らずに逆から歩いてきたからこそ出会えた、夕暮れ時の黄金色の風景。それは、この土地を守ってきた神様からの、思わぬご褒美のようでした。

振り返って一の鳥居を再び潜ります。

一の鳥居がある西側から参道を進むと、朱塗りの鳥居が見えて来ます。

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地名に残る記憶:第24代・仁賢天皇「石上廣高宮」

ここ姫丸稲荷神社は、『日本書紀』に記された第24代・仁賢(にんけん)天皇の皇居、「石上廣高宮(いそのかみひろたかのみや)」の伝承地。さらには、仁賢天皇の父である市辺押磐皇子(いちべのおしはのみこ)の「石上市辺宮(いそのかみのいちべのみや)」もこの地にあったと考証されています。

実は、この親子には切なくも壮大な物語がありました。 父である市辺押磐皇子は、皇位を狙う従兄弟(後の雄略天皇)によって、狩りの最中に「猪だ!」と偽って射殺されるという悲劇的な最期を遂げてしまいます。

残された息子たち(後の顕宗・仁賢天皇)は、命からがら播磨の国へ逃げ延び、身分を隠して牛馬の世話人として仕えるという、長く過酷な放労時代を過ごしました。

しかし、歴史は動き、兄弟はやがて再び見い出されて都へと返り咲きます。 仁賢天皇が即位した際、父ゆかりのこの石上の地に「石上廣高宮」を築いたのは、「奪われた父の穏やかな暮らしを、自分たちの代で取り戻したかった」という、深い愛と決意があったからではないでしょうか。

1500年前、ここは大和朝廷の政治・文化の中心地でした。「宮の屋敷」という地名には、地獄のような苦難を乗り越えて、家族の絆を取り戻した親子二代の物語が、今も静かに息づいています。

【新シリーズ始動】古代天皇の宮を辿る旅へ

今回の「姫丸稲荷神社」での体験がきっかけで、私の中で新しい好奇心が芽生えました。

これまで地域やルートごとに歴史を巡ってきましたが、これからは「歴代天皇の宮」を初代から順番に辿ってみたい!そんな想いから、新シリーズ『古代天皇の宮を辿る旅』をスタートさせることに決めました。

第1回は、すべての始まりである初代・神武天皇。 彼が即位した「畝傍山東南橿原宮」の伝承地である橿原神宮、そして神武天皇陵を訪ねます。

第25代の「姫丸」から、物語はいよいよ「初代」へ。 歴史のバトンを繋ぐ旅に、これからもお付き合いいただけたら嬉しいです。

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姫丸稲荷神社へのアクセス

奈良県天理市石上町976-1

石上廣高宮」の石碑の左手に駐車場があります。

山の辺の道「北コース」散策ガイド

今回ご紹介した「姫丸稲荷神社」は、「山の辺の道」から少し西へ入った場所にあります。少し寄り道になりますが、高台からの絶景と深い歴史を味わえる、私の一押しのスポットです。

これまでの「山の辺の道」北コース(天理〜奈良)の歩き方や、周辺の見どころについては、こちらのまとめ記事で詳しく紹介しています。ぜひ、あなたの旅のプランに役立ててくださいね!

最後までお読み頂きありがとうございます。

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