スポンサーリンク

【なぜ記録が少ない?】歴史の空白に消えた『欠史八代』の謎に迫る

※当サイトではアフィリエイト広告を利用しています。

古墳や古道、そして古代史の舞台となった場所を歩くのが大好きなみくるです。

日本の天皇の歴史をたどると、初代・神武天皇から現在まで、皇統は脈々と受け継がれてきました。そのなかで、第2代 綏靖天皇から第9代 開化天皇までの八代は、史書に詳しい記録がほとんど残されていないため、「欠史八代(けっしはちだい)」と呼ばれています。

第8代孝元天皇の陵墓(橿原市)
第8代孝元天皇の陵墓(橿原市)

『古事記』『日本書紀』には、系譜や宮の名前が簡単に記されている程度で、治世の様子や出来事についてはほとんど伝わっていません。そのため学問的には、実在を疑問視する声もあります。

でも私は、欠史八代の天皇たちも実際に存在していたと考えています。史料が少ないからといって「いなかった」と断じるのは不自然ですし、分からないからこそ想像を膨らませることができる――そこにこそ古代ロマンを感じるのです。

今回は、この「欠史八代」と呼ばれる天皇たちについてまとめてみました。

スポンサーリンク

記紀が伝える幻の天皇たち「欠史八代」を歩く古代ロマン

欠史八代の天皇一覧

※後日、宮跡や石碑の写真も追記予定です

第2代 綏靖(すいぜい)天皇

  • 宮号:葛城高岡宮(かつらぎのたかおかのみや)
  • 伝承地:奈良県御所市高天、葛城市忍海地区など
  • 在位年数:33年(『記紀』による)
  • :掖上博多山上陵(わきがみのはかたのやまのえのみささぎ/奈良県桜井市)

第3代 安寧(あんねい)天皇

  • 宮号:片塩浮穴宮(かたしおのうけあのみや)
  • 伝承地:奈良県大和高田市片塩(龍王宮境内に石碑あり)
  • 在位年数:38年
  • :畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのみささぎ/奈良県橿原市)

第4代 懿徳(いとく)天皇

  • 宮号:軽曲峡宮(かるのまがりおのみや)
  • 伝承地:奈良県橿原市石川町
  • 在位年数:34年
  • :畝傍山南繰井之上陵(うねびやまのみなみのくりいのえのみささぎ/奈良県橿原市)

第5代 孝昭(こうしょう)天皇

  • 宮号:掖上池心宮(わきがみのいけこころのみや)
  • 伝承地:奈良県桜井市穴師・芝周辺に伝承あり
  • 在位年数:83年
  • :掖上池心陵(わきがみのいけこころのみささぎ/奈良県桜井市)

第6代 孝安(こうあん)天皇

  • 宮号:室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)
  • 伝承地:奈良県御所市室・桜井市初瀬川流域など諸説
  • 在位年数:102年
  • :玉手丘上陵(たまでのおかのえのみささぎ/奈良県御所市)

第7代 孝霊(こうれい)天皇

  • 宮号:黒田廬戸宮(くろだのいおのみや)
  • 伝承地:奈良県御所市黒田、桜井市黒崎など複数伝承
  • 在位年数:76年
  • :片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ/奈良県北葛城郡広陵町)

第8代 孝元(こうげん)天皇

  • 宮号:軽境原宮(かるのさかいはらのみや)
  • 伝承地:奈良県橿原市木之本町(牟佐坐神社近くに石碑あり)
  • 在位年数:57年
  • :剣池嶋上陵(つるぎのいけのしまのえのみささぎ/奈良県橿原市)
孝元天皇「軽境原宮跡」の石碑

第9代 開化(かいか)天皇

  • 宮号:春日率川宮(かすがのいちかわのみや)
  • 伝承地:奈良県奈良市率川町(率川神社付近に伝承あり)
  • 在位年数:60年
  • :春日率川坂上陵(かすがのいちかわのさかのえのみささぎ/奈良県奈良市)
スポンサーリンク

なぜ「欠史八代」と呼ばれるのか

第2代・綏靖天皇から第9代・開化天皇までの8代は、まとめて「欠史八代」と呼ばれています。これは、『古事記』や『日本書紀』といった正史において、即位や崩御、宮号といった最小限の記録しか残されていないためです。系譜は記されているものの、政治的な事績や出来事の具体的な記録がほとんど欠落しており、後世の歴史学者から「歴史の空白」と捉えられてきました。

そのため、近代以降の研究では「実在性に乏しい」「皇統を整えるために付け加えられた系譜ではないか」といった議論も生まれました。特に、在位年数がいずれも長大で(50年以上〜100年以上とされる天皇もいます)、現実的に考えにくい点も、実在性を疑う理由のひとつとなっています。

しかし一方で、宮号や陵墓の伝承地が各地に残されており、石碑や地名、古社との関連も見られます。これらの痕跡は、たとえ記録が少なくとも「まったくの空想ではなく、何らかの王統が存在した可能性」を示唆するものとして注目されています

スポンサーリンク

欠史八代の記録が少ない理由

欠史八代の天皇たちの記録がほとんど残されていないのは、いくつかの理由が考えられます。まず、神武天皇から開化天皇までの時代は、記紀が編纂された8世紀から見ると数百年も前のことです。当時の文字による記録はほとんどなく、口伝に頼る部分が多かったため、時間の経過とともに伝わらなくなったことが大きな要因です。

また、口伝も完全ではなく、戦乱や社会変動、地理的な移動によって失われたり変化したりした可能性があります。そのため、編纂者たちは、皇統の正統性を示すことを主目的として、具体的な政治行為や出来事が不明な天皇については系譜だけを簡略に記す形になったと考えられます。

さらに、欠史八代が記紀に組み込まれた理由のひとつには、神武天皇と崇神天皇をつなぐ「系譜の補完」の役割がありました。神武天皇から崇神天皇までの間の皇統を途切れさせず、後世に正統性を示すために、情報が乏しい天皇でも系譜として記紀に位置づけられたのです。

つまり、記録が少ないことは「存在しなかったから」ではなく、「昔のこと過ぎて分からなくなってしまったから」と理解するのが自然です。この不明瞭さこそが、欠史八代の天皇たちを巡る古代ロマンの魅力でもあります。

なお、欠史八代の天皇たちの宮跡や伝承地の多くは、奈良県葛城地方を中心に分布していることから、学術的には 葛城王権説 と関連づけて語られることもあります。具体的な記録は乏しいものの、この地域の有力王権との関わりを想像することで、欠史八代の時代の古代ロマンをより楽しむことができます。

【個人的考察】「わからない」からこそ古代ロマンがある

学術的には記録が乏しい欠史八代ですが、私はこの8代の天皇たちも、神武天皇から現代に至る皇統の中で確かに存在していたと考えています。史料が少ないからといって否定するのはおかしいと思うのです。

宮跡や伝承地に残る石碑、地名、神社の位置などをたどると、当時の人々が天皇や宮の存在を大切に記憶し、後世に伝えようとした痕跡が感じられます。それは「史実の断片」であると同時に、私たちが古代ロマンを想像できる貴重な手がかりでもあります。

葛城地方を中心に伝承が残ることから、欠史八代の天皇たちは当時の有力王権と関わりながら政治を行っていたのではないか、と想像することもできます。宮跡を巡り、伝承をたどりながら歴史の空白に思いを馳せると、古代の人々の暮らしや政治、信仰の姿が少しずつ浮かび上がってくるように感じられます。

スポンサーリンク

今後の予告とまとめ

この記事では、記録が乏しい欠史八代の天皇たちを一覧で整理し、宮号や伝承地、陵の情報をまとめました。学術的な解説や古代ロマンの視点も交えて、欠史八代の全体像を把握できるまとめ記事となっています。

今後、みくるの森ではそれぞれの天皇をテーマにした個別記事を順次作成し、宮跡や石碑を巡りながら、欠史八代の足跡をより詳しく紹介していく予定です。

欠史八代の中でも、第8代の孝元天皇については、橿原市に伝わる宮跡や陵の情報をより詳しくまとめた個別記事があります。実際の陵や石碑を訪ねながら、孝元天皇の足跡を追う旅の様子は、こちらの記事でご覧いただけます。

最後までお読み頂きありがとうございます。

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました