古墳や古道、そして古代史の舞台となった場所を歩くのが大好きなみくるです。
「古代天皇の宮シリーズ」として、今回は「檜隈盧入野宮(ひのくまのいおりののみや)」をご紹介します。
宣化天皇(せんかてんのう)の皇居であった檜隈廬入野宮は、『日本書紀』によれば、宣化天皇元年(536年頃)に都が遷された場所です。
この宮殿は、現在の明日香村檜前(ひのくま)に鎮座する於美阿志神社(おみあしじんじゃ)の境内地に伝承されており、その立地こそが古代史において極めて重要な意味を持っています。
飛鳥時代の直前、政治の中心地であった檜隈の地に置かれた宮の伝承をたどりながら、歴史散策を楽しんでみましょう。
宣化天皇が飛鳥の夜明けを告げた「檜隈廬入野宮」
第28代 宣化天皇|飛鳥への道を拓いた天皇
第28代宣化天皇(在位:535~539年)は、6世紀半ばに在位した第28代天皇です。その治世は短期間でしたが、後の飛鳥時代へとつながる重要な足跡を、檜隈(ひのくま)の地に残しました。

基本情報と皇位継承
宣化天皇の和風諡号は、武小広国押盾天皇(たけおひろくにおしたてのすめらみこと)といい、諱は檜隈高田皇子(ひのくまのたかだのみこ)です。
- 出自:第26代 継体天皇の第二皇子で、安閑天皇とは同母兄弟にあたります。
- 即位:先代の安閑天皇に嗣子がいなかったため、群臣の推挙を受けて高齢で即位しました。この時期は、宣化天皇の異母弟にあたる欽明天皇の存在もあり、皇位継承をめぐって朝廷内が複雑な情勢にあったと考えられています。
- 重臣:政権を支えたのは、大伴金村(おおとものかなむら)、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)といった大連(おおむらじ)と、新興勢力である蘇我稲目(そがのいなめ)大臣(おおおみ)でした。特に蘇我稲目の登用は、その後の歴史の流れを決定づける人事でした。
皇居と渡来文化の地
宣化天皇の最も大きな事績の一つは、皇居を「檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりのみや)」に定めたことです。
元年(536年頃)春正月に、都を檜隈廬入野(ひのくまのいおりの)に遷(うつ)す。因りて宮号とす。
『日本書紀』
- 遷都:『日本書紀』によると、即位元年(536年頃)に都を檜隈廬入野に移し、これを宮号としました。
- 檜隈の重要性:檜隈の地は、百済から渡来した東漢氏(やまとのあやうじ)をはじめとする渡来人集団の拠点でした。宣化天皇がこの地に宮を置いた背景には、彼らの持つ先進的な技術力と国際知識を取り込み、国力を強化しようとする明確な意図があったと推測されます。
- 飛鳥時代への先鞭:この遷都は、後の飛鳥地域に本格的に都が営まれる時代の先駆けとなりました。宣化天皇の宮跡は、現在の於美阿志神社・檜隈寺跡に伝承されています。

内政と外交
治世においては、外交と防衛に重点を置きました。
- 食の詔:「食(くらひもの)は天下(あめのした)の本(おおもと)なり」という詔を出し、食糧備蓄の重要性を強調しました。特に外交の拠点である筑紫国(九州)の那津之口の官家(なのつぐちのみやけ)を修造し、食糧を蓄えさせています。
- 任那防衛:新羅が任那を侵略した際には、大伴狭手彦らを派遣して防衛にあたらせるなど、朝鮮半島情勢に対応しました。
宣化天皇は、檜隈廬入野宮にて崩御されました。その短い治世は、古代日本の政治の中心が、いよいよ飛鳥という国際的な舞台へと移り変わる端緒を示した時代でした。
四年(539年頃)春二月、天皇、檜隈廬入野宮に崩(かむあが)りましぬ。時に年七十三。
『日本書紀』
渡来人の先進文化が育んだ宮
宣化天皇の宮が営まれた檜隈の地は、当時、非常に特殊な地域でした。

ここは、応神天皇の時代に渡来したと伝えられる阿知使主(あちのおみ)を祖とする有力な渡来人集団、東漢氏(やまとのあやうじ)の拠点でした。彼らは製鉄、機織、土器製作、高度な行政能力など、大陸の先進的な技術と知識をヤマト王権にもたらしたエキスパート集団です。

宣化天皇が皇居をこの檜隈に置いた背景には、こうした渡来文化の集積地が持つ技術力と国際感覚を取り込み、政権基盤を強化しようとする意図があったと推測されます。
飛鳥時代の始まりを告げた場所
宣化天皇の在位期間は約3年と短かったものの、この檜隈への遷都は、後の日本の歴史にとって大きな転換点となりました。
それまでのヤマト王権の宮は、奈良盆地の北部や東部(磯城・磐余など)に置かれることが多かったのですが、檜隈廬入野宮は、飛鳥地域に本格的な政治の中心が置かれた最初の事例の一つとされています。
この後、宣化天皇の弟である欽明天皇が飛鳥に近い磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)に宮を置くなど、徐々に政治の中心が飛鳥地域へとシフトしていきます。檜隈廬入野宮は、飛鳥時代という新しい文化と政治の時代を間接的に準備した、まさに夜明けを告げる宮だったと言えるでしょう。
現在の宮跡を訪ねる
現在、檜隈廬入野宮の正確な宮殿の遺構は確認されていませんが、伝承地は於美阿志神社の境内、および檜隈寺跡と重なっています。

於美阿志神社の鳥居付近には、「宣化天皇 檜隈廬入野宮址」と刻まれた石碑が建てられており、かつてこの地で古代日本の政治が動いていたことを静かに伝えています。

この場所は、
- 渡来人の祖神を祀る神社(於美阿志神社)
- 渡来人氏族の氏寺(檜隈寺跡)
- 古代天皇の皇居(檜隈廬入野宮跡)
という三つの歴史的顔を持つ、明日香村でも稀有な場所であり、古代史のロマンを感じさせてくれます。

檜隈盧入野宮跡の周辺の見どころ
檜隈盧入野宮跡の周辺を散策するなら、季節限定のスポットもおすすめです。
- キトラ古墳周辺地区の彼岸花(秋限定)
整備された広大な公園の緑や、小道に沿って咲く彼岸花の風景は、歴史を感じながらゆっくりと散策するのに最適な場所です。

- 於美阿志神社前の彼岸花
キトラ古墳周辺地区から於美阿志神社に向かうと、彼岸花を楽しみながら散策できます。


まとめ ― 宣化天皇の檜隈盧入野宮跡を訪ねる
宣化天皇の檜隈盧入野宮(奈良県明日香村)は、飛鳥時代黎明期に置かれた重要な宮址です。
短い在位ながらも、宮都変遷期の歴史や有力氏族との政治的関係を知る手がかりが残る貴重な場所です。
明日香村の檜前地区には、檜隈盧入野宮の伝承地として於美阿志神社や檜隈寺跡もあり、歴史散策にぴったりのスポット。
さらに、秋には美しい彼岸花が咲き誇り、宮跡と古代史の舞台を彩る自然の景観も楽しめます。
宣化天皇の宮跡周辺では秋に彼岸花が見られますが、明日香村全域には他にも見どころがたくさん。
散策のついでにチェックしたい方は、こちらのまとめ記事が便利です。
歴史好きや古墳巡りファンはもちろん、飛鳥の文化と自然を一度に体感したい観光客にもおすすめです。
ぜひ、宣化天皇の宮跡・檜隈盧入野宮を訪れ、古代史の息吹と秋の風景を楽しむ散策をしてみてくださいね。
檜隈廬入野宮跡へのアクセス情報と周辺観光
奈良県高市郡明日香村檜前
境内自由
於美阿志神社の鳥居前に小さなスペースあり
近鉄吉野線「飛鳥駅」から徒歩約15分
檜隈廬入野宮跡の付近の散策には、「国営飛鳥歴史公園 キトラ古墳周辺地区」の駐車場を利用されると便利です。

宣化天皇の檜隈廬入野宮跡(於美阿志神社)へは、第2駐車場が近いです。

於美阿志神社・檜隈寺跡は、明日香村の南西、渡来人の里として栄えた檜前地区に位置しています。この周辺地域は、国営飛鳥歴史公園の広大な敷地の一部としても整備されており、他にも多数の歴史スポットが点在しています。
明日香村を効率よく巡るための交通手段や、この周辺を含む公園全体の情報については、こちらの記事をご参照ください。
最後までお読み頂きありがとうございます。