卑弥呼の時代と古代首長の秘密【纒向古墳群】で読み解く邪馬台国の謎 (奈良県桜井市)

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古墳を見て歩きながら、古代に想いを馳せるのが好きなみくるです。

奈良県桜井市の纒向地域。この地は、古墳時代初期の大型前方後円墳が集中する、まさに“古墳の原点”とも言える特別なエリアです。

奈良盆地の南東、桜井市・明日香村の境に広がる纒向地域。この地には、古代日本の権力構造を読み解く鍵となる古墳群が点在しています。3世紀前半から中頃にかけて築かれた「纒向古墳群(まきむくこふんぐん)」は、試行期の纒向型前方後円墳から、完成形とされる箸墓型前方後円墳まで、さまざまな形式の古墳が集中する特異なエリアです。

箸墓古墳

この古墳群は、単なる墓地ではなく、大和王権成立期の政治的・儀礼的中心地であり、卑弥呼の時代や邪馬台国の実像を考える上でも重要な舞台です。各古墳の形状や出土品を通して、当時の権力や社会の姿を垣間見ることができます。

今回は、卑弥呼や邪馬台国の時代を感じながら、当時の社会と権力を知ることができる「纒向古墳群」をご紹介します。

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邪馬台国への扉?纒向古墳群から読み解く古代の世界

纒向古墳群の概要

纒向古墳群(まきむくこふんぐん)は、奈良県桜井市に所在する古墳時代前期初頭の古墳群です。オオヤマト古墳集団(大和・柳本古墳群)のなかの1つで、柳本古墳群(やなぎもとこふんぐん)の南に位置し、三輪山の西麓に広がります。前方後円墳発祥の地とみられています。

「オオヤマト古墳集団」は、奈良盆地の南東部に所在し、北から、萱生古墳群、柳本古墳群、纒向古墳群、磯城の古墳の4グループに分類され、本古墳群は、天理市から桜井市の「山の辺の道」沿いに広がる柳本古墳群の南、かつての「水垣郷(みずがきごう)」に位置し、広大な纒向遺跡(まきむくいせき)のなかに分布します。

水垣郷とは?

水垣郷(みずがきごう)は、古代日本の奈良盆地、特に纒向地域の近くにあった古代の地域単位(郷)です。
当時の「郷」は、現代の村や町にあたる行政単位で、農村や集落をまとめて支配・管理する役割を持っていました。

纒向古墳群が築かれた時代、この水垣郷もまた、大和王権や豪族の支配下にあった地域の一つと考えられています。つまり、古墳を築くための土地や労働力が確保された背景として、水垣郷の存在が重要だったのです。

現代の地名としては残っていませんが、古代史の文献や考古学的研究では、纒向地域の社会や政治の枠組みを理解する手がかりとして名前が登場します。

これらの古墳は、古墳形式の発展や首長権力の集中の様子を知る手がかりとなり、古代日本の政治・社会構造を理解する上で欠かせない場所です。

纏向古墳群には、最古の巨大前方後円墳とされる箸墓古墳(はしはかこふんと、それより古い5基の前方後円墳が点在します。うち2基は箸墓型前方後円墳、3基は纏向型前方後円墳です。

こちらは、桜井市立埋蔵文化財センターに展示されている纏向遺跡の模型です。中央下に箸墓古墳とホケノ山古墳、左上にその他の古墳が集まっています。

桜井市立埋蔵文化財センターに展示されている纏向遺跡の模型

箸墓型前方後円墳は、円丘部に先端部をばち型に開く、長三角形の前方部を持つ古墳です。

纏向型前方後円墳は、前方部が低く短く、墳丘全長と後円部・前方部それぞれの長さが3:2:1の比となることが特徴です。

それぞれの古墳は、首長層の権力集中や社会変化を映す重要な証拠となっています。

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邪馬台国・卑弥呼との関わり

箸墓古墳の築造年代は3世紀中頃と推定されており、『魏志倭人伝』に登場する卑弥呼の没年とほぼ重なります。この時期、纒向古墳群は畿内における政治的・宗教的中心であった可能性が高く、日本列島における首長権力の形成期を示す重要な証拠となります。

出土品には三角縁神獣鏡や勾玉、ガラス製装飾品などが含まれ、これらは国内の首長層だけでなく、中国大陸との交流や外交関係を示唆するものです。特に三角縁神獣鏡は、九州から関東まで広域で出土しており、纒向が中央権力の拠点としての機能を持っていたことがうかがえます

こちらは、奈良市の日本最大の円墳「富雄丸山古墳」の棺内から出土した「卑弥呼の鏡」ともいわれる「三角縁神獣鏡」です。

卑弥呼の鏡!?【富雄丸山古墳の棺内鏡】がついに公開

また、纒向古墳群の規模や集中度、築造の短期間性は、単なる地方の首長墓ではなく、全国的な政治権力の中枢が存在していた可能性を示しています。これにより、纒向古墳群は「邪馬台国の中心地候補」として古代史ファンや考古学者の関心を集める理由となっています。

さらに、箸墓古墳をはじめとする纒向の大型古墳は、首長の権威を可視化する象徴的建造物であり、卑弥呼の時代の社会構造や権力集中の状況を理解する手がかりともなります。これらの点から、纒向古墳群は卑弥呼と邪馬台国の存在を探る上で欠かせない遺跡群といえるでしょう

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大和王権成立との関係

纒向古墳群は、単なる古墳の集合ではなく、大和王権成立の初期段階を示す重要な証拠群です。3世紀中頃に築造された大型前方後円墳は、首長層の権力集中と社会統合の状況を具体的に示しています。特に箸墓古墳は、全長278メートルという巨大墳で、当時の首長が広域的な権威を示すために築いたと考えられます。

纒向古墳群で確立された前方後円墳の形式や築造技術は、後続の杣之内古墳群佐紀古墳群馬見古墳群などの畿内古墳にも大きな影響を与えました。これにより、全国的な前方後円墳築造のモデルが生まれ、大和王権が支配する地域の象徴として機能します

さらに、纒向古墳群の短期間での集中築造は、複数の豪族を統合して権力基盤を形成する過程を反映しています。これは中央集権化の萌芽であり、のちの大和王権による全国支配の礎となったと考えられます。

また、纒向古墳群は外交的・儀礼的側面も持ち、三角縁神獣鏡や勾玉、ガラス製装飾品などの出土は、国内外の首長層と連携していたことを示唆しています。これにより、纒向古墳群は単なる地域の首長墓ではなく、初期大和王権の中枢機能を担っていた可能性が高いといえます。

「奈良県立橿原考古学研究所附属博物館」で開催されていた「ホケノ山古墳―大和王権の成立へ―」で、ホケノ山古墳中心埋葬施設「石囲い木槨」の想定復元模型想定復元模型が展示されていました。

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纒向古墳群の主な古墳

纏向古墳群内の前方後円墳には、次の6基があります。

纏向石塚古墳

纏向石塚古墳は、纏向勝山古墳より東へ250mほどの場所にある纏向型前方後円墳です。被葬者は不明。

標高69m前後の扇状地上に立地し、1971年の調査で周濠から出土した多くの遺物の年代観から、庄内0式期(3世紀初頭)の築造とされ、最古の古墳として注目されました。

纏向矢塚古墳

纏向矢塚古墳は、纏向勝山古墳のすぐ南にある纏向型前方後円墳です。被葬者は不明。

全長は96mで後円部はやや東西に長い楕円形で前方部34m、後円部径62mの古墳です。埴輪、葺石はありません。周濠は後円部のみで地形に合わせて前方部に向かう途中で途切れ、後円部南側では堀削直後にブロック状の盛土が築かれていました。 

纏向勝山古墳

纒向勝山古墳まきむくかつやまこふんは、奈良県桜井市の纒向古墳群に属する箸墓型前方後円墳です。被葬者は不明。全長115m、後円部径67m、前方部が東面します。

東田大塚古墳

東田ひがいだ大塚古墳は、纏向矢塚古墳より南へ580mほどの場所に位置する箸墓型前方後円墳です。被葬者は不明。

大字東田ひがいだにあるこの古墳は、前方後円墳で全長120m、前方部長50m、後円部径70m前後、前方部を南西に向けています。周濠は前方部では検出されず、後円部のみ痕跡が認められています。墳丘は全て盛土で葺石、埴輪はありません。

ホケノ山古墳

ホケノ山古墳は奈良県桜井市大字箸中に所在する前方後円墳で、纏向古墳群の中で全体像が判明している唯一の古墳です。

前方部を南東へ向け、全長は約80m、後円部径約55m、前方部長約25mです。周囲は周濠状の溝により区画されていました。全長:後円部径:前方部長の比率が3:2:で、高い後円部に低い前方部が取り付く特徴から纏向型前方後円墳のひとつと考えられています。

箸墓古墳

箸墓古墳は、桜井市箸中にある前方後円墳で、他の5基と比べても規模が大きく、形も整っています。墳丘には埴輪が伴っており、宮内庁では被葬者を倭迹迹日百襲姫命と治定しています。

全長約278mと巨大で、上の5基とは隔絶した規模と整った外形をもち、箸墓型前方後円墳の代表例とされています。

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コラム:箸墓古墳とその“仲間たち”

纒向古墳群には、箸墓古墳をはじめ、いくつかの前方後円墳があります。でも、全部が同じように完成された形をしているわけではありません。

箸墓古墳は全長278メートルという巨大規模で、前方部と後円部の比率も整い、まさに「完成された前方後円墳」の代表例です。学者の中には、これを定型化古墳の先駆けとみなす人もいます。つまり、後の時代の前方後円墳のモデルになった、古墳形式の完成形と考えられるわけです。

箸墓古墳 – Wikipedia

一方で、同じ纒向古墳群にある石塚古墳や矢塚古墳、勝山古墳などは、規模が小さく、形もまだ整いきっていません。このため「前方後円墳」と呼ぶよりは、“前方後円形墳丘墓”と呼ぶ方が正確だという見方もあります。言い換えれば、これらは試行期の古墳で、箸墓古墳の完成形に向かう途中の形なのです。

桜井市立埋蔵文化財センター

この違いを意識して見ると、纒向古墳群は単なる古墳の集まりではなく、古墳形式の発展過程を一目で追える貴重な地域だということがわかります

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まとめ:纒向古墳群から読み解く古代の世界

纒向古墳群は、古代日本における権力の誕生と展開を示す、まさに歴史の舞台です。試行期の纒向型前方後円墳から、完成期の箸墓型前方後円墳へと発展する過程を通して、古墳形式の進化と、当時の首長権力の集中の様子を知ることができます。

箸墓古墳の巨大な墳丘や周濠、出土品は、単なる墓ではなく、国内外との交流や権力象徴としての役割を持っていたことを示しています。また、纒向古墳群の短期間での集中築造は、豪族の統合や大和王権成立の初期段階を理解するうえでも欠かせません。

この地を訪れることで、文字や資料だけでは伝わりにくい古代の息吹を感じ、邪馬台国や卑弥呼の時代の社会構造を立体的に学ぶことができます。纒向古墳群は、まさに「古代への扉」であり、歴史好きには見逃せない場所なのです。

纏向古墳群へのアクセス

纒向古墳群の代表的な古墳である箸墓古墳へは、公共交通機関でも車でも訪れることができます。

奈良県桜井市箸中

電車・徒歩の場合

  • 近鉄大阪線「桜井駅」から歩いて約25分。散策しながら古墳の周囲の景色も楽しめます。
  • 駅からタクシーなら約5分なので、歩くのが苦手な方も安心です。

車の場合

  • 西名阪自動車道「桜井東IC」から約10分。
  • 古墳の近くには駐車場も整備されていて、車でもアクセス便利です。

ひみこの庭さんの駐車場を利用させて頂きました。

ひみこの庭の駐車場

「ひみこの庭 古墳 P¥0」と表示されています。

ひみこの庭の駐車場の表示

箸墓古墳を中心に、纒向石塚古墳や矢塚古墳、ホケノ山古墳など、他の古墳も徒歩や車で巡ることができます。古墳の形や規模を比較しながら歩くと、当時の権力や社会の雰囲気をより身近に感じられるはずです。

詳しいアクセス情報は、それぞれの記事をご覧ください。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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