「豊臣兄弟!」ゆかりの地めぐり~江戸時代の町並みが残る【土佐街道】を歩く~(奈良県高取町)

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026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を楽しみにしているみくるです。

私が住む奈良県には、豊臣秀長とよとみひでながにゆかりのある地が数多くあります。

前回は、奈良県高取町の「土佐街道」に移築された高取城「松ノ門」をご紹介しました。高取山の山上にそびえる山城「高取城」は、豊臣秀長の重臣・本多利久によって築かれました。

今回は、「土佐街道」沿いに軒を連ねる古い家並みの中から「武家屋敷(田塩家)」と「植村家長屋門」をご紹介します。

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高取城の城下町「土佐街道」

武家屋敷(田塩家)

武家屋敷の田塩家は、高取町の市街からへと続く緩やかな坂道の途中に建っています。

土佐街道は、高取藩2万5千石の城下町として栄えた高取町のメインストリートです。当時は500軒もの商家が軒を連ねたといい、今も低い軒先や連子窓といった古い家並みの随所に、往時の繁栄ぶりを偲ぶことができます。

田塩家は、長屋門をそのまま残す武家屋敷です。300年の時を経るお屋敷ですが、今も人が住まわれています。

長屋門」には、格子が横向きの「与力窓」が2つ付いています。

「与力」とは、「上級武士の下について働く中間管理職的な武士の役職」を意味する言葉です。

田塩家が面するのは、高取城の旧大手町通りです。広く視界を確保できる与力窓から、通りを監視していたのですね。表口を警戒するような構えは、全国的にも余り例の無い珍しい遺構とされています。

武家屋敷(田塩家)

長屋門をそのまま残す武家屋敷。300年経つ。格子が横向きの「与力窓」を2つ付けた「長屋門」。両袖に物見所と馬屋をもつ武家門のある屋敷。門を入ったところ、玄関脇に格子をはめた「監視窓」つきの塀があり、表口を警戒する構えは他では見られない珍しい遺構。

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植村家長屋門

田塩家から坂道を少し上ると、美しい漆喰塗りの壁を備えたお屋敷が見えて来ます。植村家「長屋門」です。

現在も旧藩主・植村家の住居として機能するこの屋敷は元々、旧高取藩の筆頭家老屋敷でした。

江戸末期の文政9年(1826年)の建立です。近代武家屋敷表門の遺構を残す貴重な建造物であることから、奈良県の重要文化財に指定されています。

建物は間口39.1m、奥行き4m、むね高5mの規模を誇る一重入母屋瓦葺き造りとなっています。

県文化財指定(昭和35年7月28日)
植村家長屋門

植村家長屋門は、文政9年(1826年)の建立で、一重入母屋瓦葺造り、門内の東西に各四室の部屋がある。

江戸時代は、高取藩に仕える中間ちゅうげんたちが、それぞれの部屋に住んでいた。近世武家屋敷表門の遺構を残している貴重な建物である。
当時は城代家老の役宅であったが、現在は旧藩主植村氏の住居となっている。

美しい漆喰塗りの壁は「海鼠壁なまこかべ」といいます。

海鼠壁(なまこかべ)

土蔵などに用いられる、日本伝統の壁塗りの様式の一つです。壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の目地(継ぎ目)に漆喰を蒲鉾形に盛り付けて塗る工法によるもので、目地の盛り上がった形がナマコ(海鼠)に似ていることからその名があります。

防火性、保温性、保湿性に優れ、明治時代から昭和初期まで各地で見られましたが、現在では希少となっています。

かつての筆頭家老の威厳が伝わる意匠ですね。城下町らしい風情を感じます。

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植村家長屋門へのアクセス

奈良県高市郡高取町下子島3

土佐街道を高取城跡へ向かってさらに上ると、春は桜が美しい「上子島砂防公園」が見えて来ます。ハイキングシーズンには、たくさんの方々が、高取城へ上る際の最初の休憩地点として休憩されています。

高取城跡へは、ここからまだまだ険しい山道が続きます。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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