山の辺の道沿いの神社仏閣や、雄大な古墳を見て歩くのが好きで、奈良県天理市によくでかけているみくるです。
今回は、天理市観光協会さんが作成された観光ガイドに掲載されている「おすすめウォーキングコース」から、「道安の郷」コースのスポットをご紹介します。
永禄年間に東大寺大仏殿が時の兵火に焼かれた際、大仏の顔をデザインし修復に貢献した山田道安の足跡を辿るコースです。
前回は、福住町の「氷室跡(都祁氷室の旧跡)」をご紹介しました。
今回は、氷室神社をご紹介します。氷室神社と言えば、奈良市春日野町のものが有名ですが、今回ご紹介するのは、天理市福住町の氷室神社です。
創祀は、奈良市の氷室神社(710年創祀)よりも古く、414年と伝わります。第19代允恭天皇の御代のことです。奈良市のものと区別して、「都祁氷室神社」と呼ばれることもあります。
氷の神様を祀る最古の神社「氷室神社」
都祁氷室神社の御由緒
氷室神社は、第19代允恭天皇の時代(5世紀前半)に創祀されたと伝わる日本でも珍しい「氷の神様」をお祀りする神社です。
この地域では「氷」を冬期に作って保存し、夏になると朝廷へ献上していました。そのため、皇族からの崇敬が大変厚く、ほかにはない待遇が与えられていたと伝わります。
氷室神社御由緒略記
氷の神様を祀る神社として親しまれている氷室神社は、日本書紀によると、仁徳天皇の異母兄弟で額田大中彦皇子がこの地(闘鶏)に狩に来たとき、小屋のようなものをみつけた。「これは何か?」とこの地を治めていた闘鶏稲置大山主命に尋ねると氷室だと教えてもらう。
1600年ほど前である当時、氷は大変珍しいものでした。そのため皇子はたいそう喜ばれ、それ以来、氷室神社が建立されたようです。
平城京跡の発掘調査で、木簡(文字を書いた木の札)がたくさん発見されその中に「都祁の氷室」のことが書かれており福住の氷室から平城京へ氷が運ばれていたことが証明されました。
また、この地に長屋王の別邸があったのではないかと言う学説や各地の氷室の氷をこの地に集めてその年の吉凶」を占ったという言伝えもあります。この貯えた氷には飲み物を冷やすと言うこと以外に天皇家や身分の高い貴族が亡くなったときの遺体保持のために使われていたとも伝えられています。
全国で最初の氷室神社であり、今でも古代氷室跡が20数か所見つかっている地の格であるこの神社はまさに氷室の里と呼ぶにふさわしいところです。
平安時代初頭から続く氷を奉るまつり(現在の献氷祭)が斎行されており今に至っております。
氷室神社社号標横の御由緒書き
御祭神
- 闘鶏稲置大山主命(つげいなぎおおやまぬしのみこと)
- 大鷦鷯命(おおささぎのみこと)
- 額田大中彦命(ぬかたおおなかひことのみこと)
闘鶏稲置大山主命は、仁徳天皇の御代の闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)です。古代、この地域は「闘鶏(つげ)」・「都祀(つげ)」の国と呼ばれていました。
大鷦鷯命は、仁徳天皇のことです。『日本書紀』では、大鷦鷯天皇と表記されています。
額田大中彦命は、応神天皇の皇子です。仁徳天皇の異母兄に当たります。
『日本書紀』の仁徳天皇62年の条に次のようにあります。
この年、額田大中彦皇子が、闘鶏(奈良県旧都祁村、現奈良市)に猟に行かれた。山の上に登って野の中を見られると、何か物があり、廬の形であった。使者に調べさせると、帰ってきて「窟です」という。
そこで、闘鶏稲置大山主(つげのいなきおやまぬし)を呼んで、何の洞窟かと尋ねたところ、「氷室です」という返事があった。さらにその用途をきくと、「一丈あまり土を掘って、萱をその上に葺き、厚くすすきを敷いて、氷をその上に置いて使うもので、夏を越してもなくならず、暑い月に水酒に浸して用いるものです」という答えだった。皇子はこの氷を御所に献上し、天皇はこれを喜ばれた。以後、冬になると必ず氷を貯蔵し、春分になって始めて氷をくばった、という。
このことから、氷室神社では、闘鶏稲置大山主命・大鷦鷯命・額田大中彦命を御祭神としてお祀りしています。
境内の様子
奈良市の氷室神社は有名ですが、都祁の氷室神社はあまり知られていなく、境内はひっそりと静かでした。
霊気が漂うな神秘的な空間で、なるほど、この地に氷室があったのだと、感じました。凛とした美しい神社様で、気持ちの良い参拝ができました。
社号標
一の鳥居
参道
二の鳥居
拝殿
本殿
拝殿の御由緒書
拝庭
鏡池
末社
金毘羅神社・琴平神社 大物主神
厳島神社 事代主神・湍津姫命
摂社
二柱神社 春日大神・白山比売命
三柱神社 八幡大神
古代の氷室
境内に「古代の氷室」についての説明書きが掲示されていました。
古代氷室について
『日本書紀』仁徳天皇62年の条に額田大中彦皇子が闘鶏に狩りに来られたとき、光るものを発見され、この地方を治めていた闘鶏稲置大山主命を喚してたずねたところ、天然の氷の貯蔵方法である氷室とわかった。
これより以降、毎冬期に氷を貯え夏期に献上するようになったと記されている。
昭和63年に行われた、平城京長屋王邸発掘調査で「都祁氷室」「都祁氷進始日」と書かれた木簡が出土し、氷室の造り方と長屋王邸へ運んだ責任者が記されていて、古代の史実が証明された。
このころの氷室跡は福住中学校裏山は福住小学校北側山林内など数多く残されているが、貴重な資料であるため岡本輝三様の山林を提供していただき、新しく復元したものである。
氷室神社に掲示の説明書き
このように、発掘調査が進むにつれ、『古事記』『日本書紀』に記されている多くのことが、史実であることが分かっていることを興味深く思っています。
こちらの記事では、元福住中学校裏山にある「氷室跡(都祁氷室の旧跡)」をご紹介しています。氷室神社より徒歩10分ほどでアクセスできます。
大祭
氷まつり(献氷祭)
境内の説明書きには
宮中の氷室の氷配分に因み、6月1日に、平安時代の承平2年(932年)に、醍醐天皇によって祭行がはじめられました。現在は旧暦を新暦によみかえ、毎年7月1日に「献氷祭」として行われます。
とあるのですが、2024年は海の日の7月15日に行われました。近年は海の日に行われているようです。ご確認の上、お出かけ下さい。
秋季例祭
秋季例祭では御旅所まで神輿渡御が行われます。2007年から10月中旬の祝祭日に開催されるようになり、見学する人が増えています。古、来の装束を纏って練り歩く姿は見ものです。
氷室神社の公式インスタグラムで、秋季例祭の様子がシェアされています。
都祁氷室神社へのアクセス
奈良県天理市福住町1841
無料駐車場があります。
駐車場内に「日本の氷室発祥之地」の石碑が建ち、周りには枝垂桜が植えられていました。
最後までお読み頂きありがとうございます。