神社仏閣や史跡に出かけて、その地にまつわる歴史を辿るのが好きなみくるです。
神秘的な雰囲気が好きでよくお詣りしている石上神宮(いそのかみじんぐう)に、近代日本画壇の巨匠、富岡鉄斎(とみおかてっさい)が神官として奉職していたという、大変興味深い歴史が隠されていることを知りました。
この記事では、富岡鉄斎が絵筆を置いて神社の復興に情熱を注いだ8ヶ月間の歴史と、今も境内に残るその足跡を辿ります。
富岡鉄斎と石上神宮|巨匠が捧げた復興への情熱
日本画の巨匠、富岡鉄斎とは?
富岡鉄斎(天保7年/1837年~大正13年/1924年)は、京都の生まれ。特定の流派に属さず、儒学、仏教、国学、そして多くの古美術研究を通じて、独自の画風を確立しました。その作品は、「文人画の最後を飾る巨匠」とも評され、80歳を超えてなお創作意欲を燃やし続けた、日本を代表する画家です。
彼の生涯は創作活動だけでなく、神職としての活動や古い文化財の保護にも深く関わっていた点が特徴的です。
明治維新後の神社復興の波と鉄斎の決意
明治維新(1868年)後、国家による神社の保護政策(神仏分離令など)が進められましたが、由緒ある多くの神社は一時的に衰微の極みにありました。
国際的にも著名であった富岡鉄斎(号:百錬)は、この状況を憂い、信仰心と強い志をもって神社の復興活動を始めます。彼は神官となり、各方面へ奔走することで、古い由緒ある社を救おうと決意したのです。
石上神宮での短くも濃密な8ヶ月
明治9年(1876年)5月3日、富岡鉄斎は、石上神宮の少宮司に任ぜられ、6月9日に赴任しました。

在職期間は、同年12月27日に大阪府堺市の大鳥神社(おおとりじんじゃ)の宮司に転出するまでのわずか8ヶ月弱という短いものでした。
しかし、この短期間にも鉄斎は精力的に活動しました。
- 復興活動への奔走:神社の体制整備や、資金集めなどの復興業務に尽力しました。
- 大和の御陵の調査・巡拝:地元大和(奈良)の歴史と文化への深い関心から、天皇陵(御陵)の調査や巡拝も並行して行っていたといいます。
- 書画の制作:激務の傍ら、創作活動への情熱は衰えず、書画の制作にも励んでいたことが伝えられています。
鉄斎にとって、この石上神宮での経験は、自身の精神性や創作活動にも大きな影響を与えたことでしょう。
今も残る鉄斎の「筆跡」
鉄斎の石上神宮での在職期間は短かったものの、その筆による貴重な遺作は、現在も境内に残されています。
社号標:「官幣大社 石上神宮」
県道51号線から石上神宮に入る参道の左側に建つ社号標です。

社号標に刻まれている「官幣大社 石上神宮」という隷書(れいしょ)の揮毫こそ、少宮司時代の富岡鉄斎の筆によるものです。

この社号標は、明治16年(1883年)に、長く「石上神社」と称されていた名称を、古事記や日本書紀に記されている本来の「石上神宮」に復旧したことを記念して建立されました。
諸霊招魂碑(しょれいしょうこんひ)
鏡池の南側に建つ石碑で、戦没者などの霊を慰めるものです。

この碑の揮毫も、紛れもなく鉄斎の筆によるものです。

記念の扇の下絵
大正2年(1913年)に本殿竣功を記念して配られた扇は、鉄斎の下絵をもとに版木で刷られたもので、神宮と鉄斎の深いつながりを示しています。
結びに:石上神宮で巨匠の足跡を辿る
画業で知られる富岡鉄斎が、明治維新後の混乱期に石上神宮の復興という重責を担っていたという事実は、彼が単なる芸術家ではなく、時代を見つめ、行動した知識人であったことを示しています。
彼が在職した期間は短かったものの、今なお境内には、参道入口の社号標や鏡池南側の諸霊招魂碑として、力強い鉄斎の筆跡が残っています。これらの石碑に触れる時、約150年前にこの地で復興に尽力した巨匠の情熱を感じられることでしょう。
ぜひ石上神宮を訪れた際は、神秘的な雰囲気に浸るだけでなく、歴史の意外な側面に思いを馳せ、富岡鉄斎の足跡を辿ってみてください。
こちらの記事では、石上神宮の御由緒や境内の様子などをご紹介しています。
こちらの記事では、「諸霊招魂碑」が建つ鏡池や、鬱蒼とした神さびた自然の姿が残る「石上神宮社叢」などをご紹介しています。
よくある7大疑問に答えたこちらの記事は、石上神宮の歴史と魅力を簡単を知るのに役立ちます。
最後までお読み頂きありがとうございます。




