額田王「三輪山をしかも隠すか」
風景を楽しみながら万葉歌碑巡りをしているみくるです。
前回の記事では、展望台の喧騒を離れた場所にある「大美和の杜(公園エリア)」の静かな魅力や、枝垂れ桜、そして阿波野青畝の句碑についてご紹介しました。
この公園エリアから「檜原神社(ひばらじんじゃ)」方面へと少し歩を進めると、道沿いに圧倒的な存在感を放つ大きな石碑が現れます。

今回は、万葉集屈指の女流歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)が、愛する三輪山へ捧げた魂の絶唱が刻まれた歌碑をご紹介します。
山の辺の道に建つ、もう一つの「三輪山をしかも隠すか」の歌碑
観光パンフレットには載っていない「知る人ぞ知る」名碑
今回ご紹介するのは、額田王の有名な歌が刻まれた立派な歌碑なのですが、桜井市の観光パンフレット「さくらい」や、ウォーキングマップ「山の辺の道」には、なぜか記載がありません。

これほど大きく、万葉集を象徴する歌が刻まれているのに……と驚かれるかもしれません。ですが、だからこそこの碑の前に立ったとき、自分だけが古代の息遣いを見つけたような、静かで贅沢な時間を過ごすことができます。
昭和44年に刻まれた、千田憲教授による「万葉仮名」の筆致
この歌碑が建立されたのは、昭和44年(1969年)。 揮毫(きごう)されたのは、当時、皇學館大学教授を務められていた万葉学者の千田憲(ちだ けん)氏です。

漢字ばかりで記された「原文(万葉仮名)」の並びは、一見すると難解に感じるかもしれません。
しかし、千田教授による迷いのない一字一字をじっと眺めていると、大和を去らねばならなかった額田王の、激しくも切ない心の揺れが、石の肌を通してダイレクトに伝わってくるようです。
二つの「額田王」歌碑:中河与一氏の碑との対比
三輪山の麓には、同じ額田王の歌が刻まれたもう一つの有名な歌碑があります。

こちらはパンフレットにも必ず載っている人気スポットで、小説家・中河与一(なかがわ よいち)氏の揮毫によるもの。「漢字かな交じり」で刻まれているため、私たち現代人にも読みやすく、三輪山を背景にした美しい景観の中に溶け込んでいます。

それに対して、今回ご紹介するこちらの歌碑は、あくまで「万葉の言葉そのもの」を現代に突きつけてくるような、独特の重厚な趣があります。
「読みやすさの中河氏の碑」と、「原文の響きを大切にした千田氏の碑」。 同じ歌でも、揮毫した方の解釈や時代背景によってこれほど受け取る印象が変わるのかと、改めて万葉の世界の深さを実感しました。
万葉の言霊:碑面に刻まれた歌を読み解く
万葉仮名で刻まれた一字一字を眺めていると、当時の息遣いがそのまま伝わってくるようです。碑面に刻まれた言葉を、改めて紐解いてみましょう。
千田教授による力強い揮毫で記されたのは、万葉集巻一に収められた、あまりにも有名なこの一首です。
(題詞)
額田王下近江國時作歌、井戸王即和歌
(題詞 読み下し)
額田王の近江国に下りし時に作れる歌、井戸王の即ち和へたる歌
(原文)
味酒 三輪乃山 青丹吉
奈良能山乃 山際 伊隠萬代
道隈 伊積流萬代尒
委曲毛 見管行武雄
數〻毛 見放武八萬雄
情無雲乃 隠障倍之也
(読み下し)
味酒 三輪の山 あをによし
奈良の山の 山の際に い隠るまで
道の隈 い積もるまでに
つばらにも 見つつ行かむを
しばしばも 見放けむ山を
情なく雲の 隠さふべしや
万葉集 巻1-17 額田王
(かな)
うまさけ みわのやま あをによし
ならのやまの やまのまに いかくるまで
みちのくま いつもるまでに
つばらにも みつつゆかむを
しばしばも みさけむやまを
こころなくくもの かくさふべしや
反歌
(原文)
三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳
情有南畝 可苦佐布倍思哉
(読み下し)
三輪山を しかも隠すか 雲だにも
心あらなむ 隠さふべしや
万葉集 巻1-18 額田王
(かな)
みわやまを しかもかくすか くもだにも
こころあらなも かくさふべしや
原文は、漢字ばかりの羅列でどこで区切ればいいのか分かりにくいかもしれませんが、実は一文字一文字が、私たちの知るあの調べを忠実に写し取っています。
たとえば、冒頭の「味酒(うまさけ)」。これは三輪の山にかかる枕詞(まくらことば)ですが、原文では「味酒」とそのまま綴られています。
また、道が曲がって見えなくなるまでを意味する「道の隈(くま) い積もるまでに」は、原文では「道隈 伊積流萬代尒」。 一見すると難解な漢字の並びですが、千田教授の揮毫をなぞりながら一字ずつ声に出してみると、不思議と額田王の切ない息遣いが聞こえてくるようです。
魂の絶唱を読み解く:額田王の惜別
天智天皇による近江大津宮への遷都。
住み慣れた飛鳥、そして美しい大和を離れなければならなかった額田王の、引き裂かれるような想いを現代語訳に込めました。
長歌(味酒 三輪の山…)
(現代語訳)
聖なる酒を捧ぐ、三輪の山よ。
ああ、麗しき奈良の山の、その山の端(は)に、あなたの姿が隠れてしまう。
行く道の曲がり角が、幾重にも重なり、あなたを隠し去るまで、私は何度でも、何度でも振り返り、つぶさにあなたを見つめて歩もう。
飽きることなどない、その神々しい姿を、遠く離れても、心に焼きつけよう。
それなのに、無情な雲よ、なぜそうも急いで 私の愛する山を、隠し遮ってしまうのか。
反歌(三輪山を しかも隠すか…)
(現代語訳)
三輪山をあんなにも無慈悲に隠してしまうのか。
せめて雲よ、お前だけでも、人の情(こころ)があるのなら
どうか、あの山を隠さないでおくれ。
隠し通してよいはずがあろうか。
ちょうど今の時期(4月1日の散策)と同じような季節に、額田王もこの道を、後ろ髪を引かれる思いで歩いていたのかもしれませんね。
消えた「井戸王」の歌:万葉集のミステリー
題詞には「井戸王が即座に答えて詠んだ歌」と明記されているのに、不思議なことに、万葉集の本文にはその歌が残されていません。「井戸王(いどのきみ)」についても、詳しい記録が残っておらず、その正体は謎に包まれています。
なぜ、記録から消えてしまったのでしょうか?
- 「額田王の絶唱」があまりに素晴らしすぎたから? 一説には、額田王の長歌と反歌があまりに情熱的で完成されていたため、後世の編纂者が「額田王の歌だけで十分だ」と判断し、井戸王の歌を削ってしまったのではないか……とも言われています。
- 「類聚歌林(るいじゅうかりん)」には載っていた? 山上憶良が編纂した資料には載っていたけれど、万葉集に収録される過程で失われてしまったという説もあります。
もし井戸王の歌が残っていたら、彼は大和を去る額田王にどんな言葉をかけたのでしょうか。「私も同じ気持ちです」と寄り添ったのか、それとも「さあ、前を向いて近江へ行きましょう」と励ましたのか……。
石碑に刻まれた文字の余白に、そんな失われた物語を想像してみるのも、歌碑巡りの醍醐味かもしれません。
「反歌(はんか)」とは?
ここで少し、『万葉集』の形式について触れておきましょう。 長い五七調の調べで綴られた「長歌(ちょうか)」のあとに、必ずといっていいほど添えられているのが「反歌(はんか)」です。
これは、長歌で歌い上げた切実な想いを、五・七・五・七・七の短歌形式でギュッと凝縮して「要約」したり、あるいは「補足」したりする役割を持っています。
今回の額田王の歌でも、長歌で三輪山への未練をたっぷりと歌ったあと、反歌で「それにしても、あの雲が恨めしい……!」と、その溢れ出す感情を改めて鋭く突きつけているのです。
『万葉集』と『日本書紀』が交差する瞬間
今回の歌碑を読み解く最大の鍵は、歌の背景を記した「左注(さちゅう)」にあります。
山上憶良が記録した「類聚歌林」
左注には、山上憶良(やまのうえのおくら)が編纂した『類聚歌林(るいじゅうかりん)』という資料を引用して、こう記されています。
右の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく「都を近江国に遷す時に三輪山を御覧(おんらん)す御歌なり」といへり。
住み慣れた飛鳥や大和を離れ、険しい山を越えて未知の地・近江へと向かう旅路。その途上、最後に振り返った先にあったのが、三輪山だったのです。
あの有名な山上憶良も、額田王のこの絶唱を「遷都という重大な局面を象徴する歌」として大切に記録していたことが分かります。
日本書紀と重なる「西暦667年」の記録
さらに左注は、正史である『日本書紀』の記述も引用しています。
日本書紀に曰はく「六年丙寅の春三月辛酉の朔の己卯、都を近江に遷す」といへり。
これは西暦でいうと667年のこと。 天智天皇による近江大津宮への遷都は、白村江(はくすきのえ)の戦いでの敗北を経て、唐・新羅の侵攻に備えた緊迫した情勢の中で行われました。
文学が「歴史の証言」に変わるとき
単なる個人の叙情歌ではなく、国家の重大事件である「近江遷都」という歴史的事実の裏付けとして、この歌が存在しているのです。
- 『日本書紀』:公的な記録として「遷都した」という事実を記す。
- 『万葉集』:その動乱の最中にあった人々の心の揺れを記す。
この二つが重なることで、1300年以上前の出来事が、まるで昨日のことのように生々しく浮かび上がってきます。
額田王がこの山の辺の道を通り、何度も振り返りながら三輪山との別れを惜しんだその足跡。千田憲教授が揮毫された力強い万葉仮名は、そんな「歴史の重み」そのものを現代に突きつけているようです。
これほど重要な歴史の証人ともいえる歌碑が、なぜパンフレットに載っていないのか……。そんな不思議も含めて、この場所を訪れる価値がありますね。
『天上の虹』の世界と重なる魂の惜別
万葉集の記述を鮮やかに描いた歴史漫画の名作、里中満智子先生の『天上の虹』。 その作中でも、この額田王の歌が詠まれる場面は、読む者の胸を締め付けます。
悲しみの果てに仰ぎ見る三輪山
この遷都の背景には、女帝・斉明天皇の崩御、そして白村江の戦いでの敗戦という、あまりにも重く悲しい出来事が続いていました。 先行きの見えない不安の中、住み慣れた大和を離れなければならない人々にとって、三輪山はまさに「心の拠り所」そのものだったはずです。
共に涙したであろう、同行者たちの想い
額田王が「雲よ、情けがあるなら三輪山を隠さないで」と激しく訴えたとき、その場にいた井戸王や多くの官人たちも、彼女の歌に自分たちの拭いきれない未練や悲しみを重ね、共に涙したのではないでしょうか。
この歌碑の前に立つと、単なる「古い歌」としてではなく、激動の時代を必死に生きた人々の「生きた吐息」が、1300年の時を超えて伝わってくるようです。
むすび:時を超えて響く、やまとの心
千年以上経った今も、私たちが三輪山を見て「美しい」「離れがたい」と感じる心は、きっと額田王と同じです。
観光パンフレットには載っていないこの場所で、千田教授の力強い筆致越しに三輪山を仰ぎ見る。それは、単なる観光ルートをなぞるだけでは決して味わえない、特別な歴史体験になるはずです。
山の辺の道を歩く際は、ぜひ足を止めて、彼女の情熱的な叫びに耳を傾けてみてください。
さて、この大きな歌碑のすぐ近くには、もう一つ見逃せない「六首の歌碑」が建っています。実はそこにも、額田王の別の歌が刻まれているのです。
同じ場所で、異なる形で残された彼女の足跡。 次回は、三輪山にまつわる名歌を集めたこの「六首の歌碑」を詳しく紐解いていきたいと思います。どうぞお楽しみに!
額田王「三輪山をしかも隠すか」の歌碑へのアクセス
『万葉集』巻1-17、18の歌碑が建つ場所
奈良県桜井市茅原222-10
前回の記事でご紹介した「大美和の杜(公園エリア)」から、山の辺の道を「檜原神社(ひばらじんじゃ)」の方へ歩いてすぐです。
聖地・三輪山に刻まれた「はじまりの記憶」
この額田王の歌碑のすぐそばには、もう一つ、三輪山の歴史を語る上で欠かせない大切な碑が建っています。
それが、「神武天皇 狭井河之上(さいがわのほとり)顕彰碑」です。

額田王が愛した三輪山の麓、この「狭井河」のほとりは、神武天皇が皇后となる媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)と出会われた、まさに伝承の舞台。
万葉の時代からさらに遡り、日本のはじまりの物語に触れることができるこの場所。詳しい歴史や顕彰碑の様子については、こちらの記事で詳しくご紹介しています。
ぜひ、額田王の歌碑とあわせて、古代のロマンに思いを馳せてみてください。
最後までお読み頂きありがとうございます。


