山の辺の道や古墳が好きで、よく天理市に出かけているみくるです。
朱色の鳥居が印象的だった「姫丸稲荷(ひめまるいなり)神社」を後にし、私は再び山の辺の道のメインルートへと戻りました。ここから目指すのは、広大な水面をたたえる「白川ダム」です。
この道中には、かつてこの地を治めた大豪族・物部(もののべ)氏の記憶が色濃く残っています。
今回ご紹介するのは、巨大な石の聖域「石上・豊田(いそのかみ・とよだ)古墳群」。その中でも、圧倒的な石室のスケールを誇る「岩屋大塚古墳」を中心に巡りました。
すぐ隣には別の有力豪族・ワニ氏の影もちらつく、古代大和の勢力図が重なり合うミステリアスなエリア。冬の凛とした空気の中、果樹園を抜け、巨大な古墳が語りかける歴史の鼓動に耳を傾ける——。そんな「みくるの森」らしい、歴史ロマンあふれる散策の様子をお届けします。
石上・豊田古墳群と二大豪族の足跡
「山の辺の道」北コースを白川ダムへ
「石上銅鐸出土地」と「姫丸稲荷神社」に向かうために、外れていた「山の辺の道」北コースへ戻り、今度は「白川ダム」を目指して、さらに北へと歩みを進めます。

白川ダム(白川溜池)へは、ここから1.5kmです。

途中右手に見えるぶどう畑の高い所が、「ウワナリ塚古墳」の前方部にあたります。

この道を右に折れると、ウワナリ塚古墳の東側に回れます。

向こうに見える雑木林が、後円部に当たりこちらに石室の開口部がありました。

「山の辺の道」北コースへは、ウワナリ塚古墳の東側からも戻れます。
巨大な石の聖域「岩屋大塚古墳」へ
今回ご紹介する「岩屋大塚古墳」は、「石上大塚古墳」や「ウワナリ塚古墳」と同じく、「石上・豊田(いそのかみ・とよだ)古墳群」に属する古墳です。

この古墳群は、名阪国道の上に架かる白川大橋の南側、平尾山丘陵に広がります。

山の辺の道は、名阪国道の高架下を通っています。

ここから白川ダムまで1.1kmです。

道標には「白川溜池」と書かれていますが、現在は近代的な「白川ダム」として整備されています。もともと江戸時代から続く大きいため池だった場所が、平成に入ってから今のアースダムに生まれ変わったのだそう。新旧の呼び名が混在しているのも、歴史ある道ならではですね。
山の辺の道は、高架下を通りまだ北へ伸びているのですが、「岩屋古墳古墳」は、「赤土山古墳」のある方(左手)に折れて少し歩いた場所にあります。

岩屋大塚古墳が現れました。

グーグルマップに記載がないのですが、見るとすぐに古墳だと分かりました。

岩屋大塚古墳は、6世紀前半(古墳時代後期の前半)に築かれた前方後円墳です。
復元されたサイズを見ると、全長は約76メートル、高さは6.5メートルほど。前方部が極端に短い「帆立貝式(ほたてがいしき)」のような形をしていますが、実はこれ、後世に削られて短くなってしまったものなのだそう。本来はさらに長く、堂々たる姿だったことが推測されています。
かつての調査では埴輪こそ見つかりませんでしたが、斜面には三段にわたって「葺石(ふきいし)」が敷き詰められていたことが分かっています。緑に覆われた今の姿からは想像もつきませんが、当時は白く輝く石の丘が谷間にそびえ立っていたのでしょう。
そして、この古墳の最大の驚きはその「内部」にあります。 残念ながら埋葬施設は破壊されていましたが、残された床面や側壁から推定される石室の全長は、なんと16.8メートル! あの巨大な「ウワナリ塚古墳」にも匹敵するほどの、圧倒的なスケールを誇る横穴式石室が、この静かな谷間に眠っているのです。
石上・豊田古墳群と二大豪族のミステリー
岩屋大塚古墳を含むこの一帯は、「石上・豊田(いそのかみ・とよだ)古墳群」と呼ばれています。
ここは、5世紀から7世紀にかけて築かれた150基以上もの古墳が集まる、古代の軍事氏族・物部(もののべ)氏の「奥津城(おくつき:お墓)」とされる場所。
今回訪れた岩屋大塚古墳をはじめ、石上大塚古墳、ウワナリ塚古墳、別所大塚古墳といった100メートル級の巨大な前方後円墳が連なる様子は、まさに壮観です。出土品も物部氏らしく、武器や馬具、さらには鉄を扱う「鍛冶(かじ)」に関連した遺物が多く見つかっており、当時の強大な武力と技術力がしのばれます。
しかし、この地にはもう一つ、歴史ファンを惹きつけてやまない「謎」があります。
すぐ西側の東大寺山丘陵には、物部氏と並ぶ大豪族・ワニ(和珥)氏の「東大寺山古墳群」が広がっているのです。大和朝廷を支えた二大豪族の墓域が、これほど至近距離で隣接している状況は、全国でも他に見ることができません。
「なぜ、これほど近くに並んでいるのか?」 「この岩屋古墳群は、本当はどちらの一族のものだったのか?」
そんな古代の勢力図の境界線を歩いているのだと思うと、何気ない竹林の道も、特別な物語を秘めた回廊のように感じられてきます。
ハミ塚古墳|白と黒の玉砂利が眠る貴人の墓
このエリアにはもう一基、忘れてはならない重要な古墳があります。それが、岩屋古墳群に属する「ハミ塚古墳」です。

現在は道路によって一部が削られ、入り口がコンクリートで補強されていますが、かつては周囲に濠(ほり)を巡らせた、二段築成の立派な方墳でした。
【ここがポイント!】
- 石舞台古墳と同じ時代の造り: 6世紀末〜7世紀初頭(古墳時代終末期)に築かれたもので、あの有名な明日香村の「石舞台古墳」と同時期というから驚きです。
- 白と黒のコントラスト: 石室の床には、なんと白色と黒色の玉砂利が隙間なく敷き詰められていたそうです。さらに、石棺の内側は鮮やかな「朱」で塗られていたといいます。
- この地域最大級の方墳: 7世紀初頭の古墳としてはこの界隈で最も大きく、どれほど高貴な人物が眠っていたかがうかがい知れます。
そしてここでも、「被葬者は物部氏か、それともワニ氏か?」という謎が浮上します。布留遺跡を統括していた物部氏の影、あるいはワニ氏の流れを汲む人物……。定かではないからこそ、この地を歩く足取りもどこか歴史の迷宮を探索しているような気分にさせてくれます。
ハミ塚古墳についての詳しい記録は、こちらの記事でもご紹介しています。
古墳の森を抜け、光あふれる白川ダムへ
岩屋大塚古墳やハミ塚古墳が眠る、しっとりと静かな古墳のエリアを抜けると、道は緩やかな上り坂へと差し掛かります。

このあたりの道中は、「山の辺の道」北コースの中でも特にお気に入りの風景です。

坂道を上りきり、視界がパッと開けた瞬間に現れたのは、キラキラと太陽の光を反射する広大な水面。

今回の旅の大きなチェックポイント、「白川ダム」に到着です。

冬の静寂に包まれる「白川溜池」の開放感
かつてこの地にあった「白川溜池」を、治水と利水のために近代的なアースダムとして整備したのが、この白川ダムです。

ダムの堤頂(ていちょう)は広々とした遊歩道になっていて、右手に穏やかなダム湖、左手には天理の街並みを見渡すことができます。

先ほどまでの「古墳の森」での密やかな空気感とは対照的に、ここは空が驚くほど広く、深呼吸をしたくなるような開放感に満ちていました。12月の低い陽光が水面に長い光の筋を作り、渡り鳥が羽を休める静かな光景は、歩き疲れた体に何よりのご褒美です。

ここは単なるダムとしてだけでなく、地域のオアシス。かつて物部氏やワニ氏が駆け抜けたであろうこの土地を、今は静かな水が満たしている——。そんな時代の移り変わりを肌で感じながら、湖畔で一休みすることにしました。
白川ダムやその周辺の様子は、こちらの記事で詳しくご紹介しています。
結び:重なり合う歴史の断片を辿って
「石上神宮(いそのかみじんぐう)」から始まった今回の旅。 親子二代の絆が息づく「姫丸稲荷神社」から、物部氏の権威を象徴する巨石の「岩屋大塚古墳」まで、歩くたびに1500年もの時が層となって重なり合っているのを感じる、濃密な時間となりました。
かつてこの地を駆け抜けた豪族たちが、どのような想いでこの景色を眺めていたのか。 削られてしまった古墳の姿や、地名として残る「宮の屋敷」の伝承を目の当たりにすると、形あるものは変わっても、そこに込められた「記憶」は今も確かにこの土地に息づいているのだと、改めて教えられた気がします。
古代のミステリーに胸を熱くしたあとは、一気に視界が開ける「白川ダム」でひと休み。 ここで大きく深呼吸をして、歴史散策で火照った頭を優しくクールダウン。静かなダム湖の景色は、歩き疲れた体に何よりのご褒美でした。
さて、山の辺の道・北コースの旅もいよいよ終盤戦。 次に向かうのは、嵯峨天皇の勅願によって創建されたと伝わる古刹、「弘仁寺(こうにんじ)」です。
高台に位置するその場所で、どのような静寂と出会えるのか。 古道の旅は、まだまだ続きます。
「山の辺の道」北コースを歩く方へ
石上神宮から円照寺まで、見どころたっぷりの北コース。 ご自身の体力やスケジュールに合わせて無理なく楽しむためのガイド記事をまとめました。おすすめの歩き方やルートの詳細は、こちらを参考にしてくださいね。
最後までお読み頂きありがとうございます。





