数々の名作マンガを通して、古代史の舞台に親しんでいるみくるです。
皆さんは、蘇我入鹿にどんなイメージを持っていますか?「乙巳の変」で暗殺された悪役……そんな教科書通りの姿を覆してくれるのが、名作マンガの世界です。
私は、山岸凉子先生の『日出処の天子』が大好きです。あの作品の中で、繊細で孤独な魂を持った蘇我毛人(蘇我蝦夷)の姿に触れ、彼の息子である入鹿は「本当に単なる悪者だったの?」と疑問を持つようになりました。
また、里中満智子先生の『天上の虹』では、乙巳の変という衝撃的な幕開けから、柿本人麻呂が活躍する持統天皇の時代までが鮮やかに描かれています。人麻呂が最愛の妻を想い歌った「軽(かる)」の地は、実は入鹿にとっても、蘇我一族にとっても、特別な場所でした。
今回は、そんな物語の舞台にもなった橿原・軽の地にある「菖蒲池(しょうぶいけ)古墳」を深掘りします。
なぜ入鹿は、父や祖父たちの隣ではなく、あえて「天皇の隣」に眠ることを選んだのか。そこには、物語以上にドラマチックな、天皇家と蘇我氏の「濃密すぎる距離感」が隠されていたのです。
物語が教えてくれる蘇我氏の「本当の姿」
「方墳」の系譜:蘇我氏独自のアイデンティティ
蘇我氏は、稲目の時代から「階段状の方墳(都塚古墳)」など、当時の天皇が採用していた「前方後円墳」とは一線を画すスタイルを貫いてきました。

- 蘇我稲目:都塚古墳(ピラミッド型方墳)
- 蘇我馬子:石舞台古墳(日本最大級の石室を持つ方墳)
- 蘇我蝦夷:小山田古墳(一辺約70m、最大級の方墳)
- 蘇我入鹿:菖蒲池古墳(精緻な加工が施された方墳)
特に注目したいのは、近年その存在が明らかになった「小山田(こやまだ)古墳」です。
現在の明日香養護学校の敷地内にあり、一辺が約70m以上という、当時の天皇陵をも凌駕する「超巨大方墳」であったことが判明しました。
徹底的に破壊された「毛人の夢」
『日本書紀』には、蝦夷と入鹿が生前に豪華な墓(大陵・小陵)を築いたことが記されていますが、この「小山田古墳」こそが蝦夷の「大陵」であった可能性が極めて高いとされています。
しかし、乙巳の変の後、この巨大な墓は徹底的に破壊されてしまいました。一族の栄華を消し去るかのような仕打ち……。
ですが、不思議なことに、その破壊された小山田古墳から運び出されたと思われる石棺の破片や部材が、入鹿の墓とされる「菖蒲池古墳」に移されているという説があるのです。

破壊はしたものの、死者はきちんと弔いたいという情けだったのでしょうか。それとも、親子を共に眠らせるための配慮だったのでしょうか。
入鹿もまた、この先祖代々の「方墳」というアイデンティティを継承しました。しかし、彼が選んだ「菖蒲池古墳」の場所は、父たちのいた明日香村から離れ、天皇の隣という、これまでとは決定的に異なる立地だったのです。
名前は「呪い」か「改ざん」か?蘇我氏に付けられた「獣」の名
蘇我氏の主要な人物の名前を眺めていると、ある奇妙な共通点に気づかされます。それは、なぜか「動物」や「蔑む意味を持つ漢字」が使われていることです。
- 蘇我 馬子(うまこ)
- 蘇我 蝦夷(えみし):毛人という表記もありますが、歴史書では「野蛮な未開人」を指す字が当てられました。
- 蘇我 入鹿(いるか)
なぜ「動物」の名前なのか?
これには、大きく分けて二つの説があります。
① 後世の編纂者による「改ざん」説(悪役への仕立て上げ)
乙巳の変で蘇我氏を滅ぼした側の勢力が、後に『日本書紀』などを編纂する際、政敵であった彼らを貶めるために、あえて人間以下の存在を連想させる「獣」や「魚」の字を当てたという説です。
特に「入鹿(海豚)」という名は、当時の高貴な人物の名としてはあまりに異質。彼を「皇室を脅かす異分子」として描くための、文字による呪いのようなものであったのかもしれません。
② 当時の「魔除け」としての命名説
逆に、当時はあえて卑しい名前を付けることで、悪霊から子供を守る(あまりに立派な名前だと神隠しに合うと信じられていた)という風習もありました。
しかし、一族の三代にわたってこれほど動物名が続くのは、やはり作為的なものを感じずにはいられません。
『日出処の天子』が描く「毛人」の誇り
山岸凉子先生の『日出処の天子』では、蝦夷を「毛人(えみし)」と表記しています。「毛を持つ人」と書くこの名は、当時の武勇に優れた人物に使われる立派な名でした。
それをわざわざ「エビ(蝦)」と「カニ(夷)」を組み合わせた「蝦夷」という字に書き換えられてしまったとしたら……。そこには、歴史の勝者によって「消された真実」があるように思えてなりません。
天皇の隣に寄り添う「入鹿の真意」
菖蒲池古墳の目と鼻の先にあるのが、全長310メートルを誇る超巨大前方後円墳、「五条野丸山古墳」です。
ここは、考古学的に欽明天皇と、その后で蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)が眠る場所だと目されています。
入鹿にとって、欽明天皇は蘇我氏躍進の恩人であり、堅塩媛は自分たちの権力の源泉である「蘇我の血を引く偉大な祖母」です。
漆塗りの石棺が語る「最高権力」の証
菖蒲池古墳の内部には、2基の家形石棺が安置されています。驚くべきは、その石棺に「漆(うるし)」が塗られていた形跡があることです。

当時、漆は非常に貴重な高級品。五条野丸山古墳の石室にも同様の漆塗りの痕跡があることから、入鹿は死後もなお、天皇と同等の格式で葬られることを望んだことがわかります。
これはまさに、当時の蘇我氏が持っていた絶大なパワーの象徴です。
万葉の舞台「軽(かる)」に眠る野望
このエリアは、万葉歌人・柿本人麻呂が亡き妻を想って歩いた「軽の衢(ちまた)」としても知られるロマンチックな場所です。

しかし歴史を紐解けば、ここは推古天皇が母・堅塩媛のために盛大な追悼儀式を行った、蘇我氏と天皇家の絆のステージでもありました。
入鹿がこの「軽」の地を墓所に選んだのは、単なる偶然ではありません。ここは蘇我氏が最も輝き、最も天皇家に近かった場所だったのです。
まとめ:歴史のパズルが解ける場所
当サイト「みくるの森」でこれまで紹介してきた石舞台や都塚、そしてこの菖蒲池古墳。これらを「方墳の系譜」という線でつなぐと、蘇我氏三代の野望の形が見えてきます。
- 飛鳥で基盤を固めた稲目と馬子。
- 巨大な夢を破壊された蝦夷(毛人)。
- そして、天皇の隣に並び立とうとした入鹿。
万葉の歌人が恋人を想い歩いたこの「軽」の道には、入鹿が抱いた野望の影も、今なお重なっているようです。
現在は明日香養護学校の敷地内にあり、直接見学することができない小山田古墳。

しかし、菖蒲池古墳の墳丘からその場所を眺めるとき、私たちは物語の中で苦悩した毛人や入鹿の、真実の姿に一歩近づけるような気がします。
菖蒲池古墳へのアクセス
奈良県橿原市菖蒲町4丁目43-2
駐車場はありません。
最寄り駅の近鉄岡寺駅より徒歩約9分です。
最後までお読み頂きありがとうございます。


