天理市観光協会さんのガイドマップを頼りに「山の辺の道」を歩いているみくるです。
前回の記事では、石上神宮から古道を辿り歴史の源へ。「山の辺の道(北コース)」の最初のスポットである影姫ゆかりの「布留の高橋(ふるのたかはし)」をご紹介しました。
今回は、その道筋の静かな山麓に鎮座する、知れば知るほど奥深い歴史を持つ神社「豊日神社(とよひじんじゃ)」をご紹介します。

奈良から桜井までを結ぶ「山の辺の道」は日本最古の道といわれ、特に天理から北側の道「山の辺の道(北コース)」は、観光客も少なくひっそりとしていているので、静かに歴史を辿れます。
歴史が幾重にも重なる社「豊日神社」
緑豊かな「豊日神社」の境内と天神池
「豊日神社(とよひじんじゃ)」は、山の辺の道を歩く多くの旅人が休憩に立ち寄る白川ダムのすぐ手前、豊かな緑に囲まれた奈良県天理市豊井町に鎮座する古社です。

本殿へと続く石段を上がると、左右には、ご祭神と所縁の深い牛の石像が静かに鎮座しています。

また、境内の石燈籠には「豊日神社」ではなく、「天満宮」と刻まれているものが多く見受けられます。

さらに、神社の横には「天神池」という池があります。


この池の名前も、やはり当社がかつて天満宮として篤く信仰されていた、菅原道真公(天神様)の信仰に由来しているのです。境内だけでなく、地名や自然の造形にも、道真公への信仰の深さが刻まれています。
かつては「天満宮」と呼ばれた社
実は、当社は明治時代になるまで「天満宮(てんまんぐう)」として親しまれていました。

- 御祭神: 現在も菅原道真公(すがわらのみちざねこう)を主祭神として祀っています。
- 旧地名: 鎮座地もかつては「天神口(てんじんぐち)」と呼ばれていたことからも、道真公への篤い信仰の中心であったことが分かります。

境内に並ぶ石灯籠に、「豊日神社」と刻まれいるのは1基だけです。

しかし、この神社の歴史は天満宮として始まったわけではありません。
古代に遡る「豊日神」のルーツ
この神社が「豊日神社」という名になったのは、古代の史書にその名が登場するからです。
- 改号の根拠: 平安時代の史書『三代実録』の貞観5年(863年)の条に、「大和国正六位上豊日神に従五位下を授く」という記述があります。
- 考証: 江戸時代の地誌『大和志』が、この「豊日神祠(とよひしんし)」を、当時の「豊井村の天神(天満宮)」に比定しました。これを根拠に、明治時代に社号が「豊日神社」に改められました。
- 社側の解釈: また、社側は古くから火雷天神(カライテンジン)を祀る社としており、「豊日」の名前は、朝日夕日に良き処、つまり「光がよく当たる良い場所」という意味合いもあるとされています。

御由緒書きから一部引用させて頂きます。
「豊日神社」と記された社号標の後方左右の石燈籠に、「天満宮」と刻まれている。境内に並んでいる石灯籠にも「天満宮」が多く、「豊日神社」と刻まれているのは一基だけである。祭神が菅原道真公であること、道真公と所縁の深い牛の像が拝所の上の石段左右に据えられていること、鎮座地が天神口であることなどから、当社はかつて天満宮であったことが分かる。
『三代実録』の貞観5年(863)10月6日乙丑条に、「大和国正六位上豊日神授従五位下(とよひのかみにじゅごいのげをさずく)」とある記事から、『大和志』(享保19年<1734>成立)が「豊井村今称天神(いまてんじんとしょうす)」を、「豊日神祠(とよひしんし)」に宛て、これを根拠に明治になり豊日神社と改号された。
この社は、古代からの豊日神への信仰に、菅原道真公(天神様)への信仰が重なり、さらに近代になって古代の名に復した、大変複雑で興味深い歴史を持っているのです。
「山の辺の道・北コース」を辿り豊日神社へ
石上神宮から山の辺の道を北へと歩きます(山の辺道・北コース)。
石上神宮社叢を抜けて、布留の高橋を過ぎ8分ほど歩くと、山の辺の道の道標があります。

豊井町の村からの入り口です。

「山の辺の道」に沿って山側へと歩きます。

豊日神社の鳥居が見えて来ました。

「豊日神社」の境内の様子
山の辺の道から、ゆるやかな石段を上ります。

山の辺の道は、さらに北へと続いています。

鳥居をくぐり境内へ。左手に見える建物は社務所でしょうか。

不思議な形の石があります。

上が綺麗に丸く整えられています。調べたのですが、何の石かは分かりませんでした。

手水鉢と、向こうに「神武天皇遙拝所」と「神社合祀 道路改修 記念碑」と刻まれた石碑があります。

拝殿

拝殿の奥には、石段が続き本殿が建っています。

牛の石像は、この石段の左右に建っています。


本殿

境内から鳥居を見ると、ちょうど光が指して神々しい様子でした。

まさに「光がよく当たる良い場所」でした。

鳥居はもう1基あり、神社の左手を通る山の辺の道の方に降りられます。

石段を下りて、鳥居を見上げます。


山の辺の道の道標が建っています。

豊日神社から弘仁寺(こうにんじ)まで5.7kmです。

弘仁寺は、知恵の仏様として信仰を集める虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)をご本尊とし、「高樋の虚空蔵さん」として地元の方々に親しまれているお寺です。
古代の豪族「高橋氏」が結ぶ道
実は、今回私たちが歩いた山の辺の道には、もう一つ古代史を通じた興味深い繋がりがあります。それは、古代の「食」を司った豪族「高橋氏(たかはしし)」の存在です。
- 豊日神社との繋がり: 豊日神社には、天皇に料理を奉った豊日連(とよひのむらじ)が祖神を祀ったという説があり、この豊日連は高橋氏の祖先にあたるとされています。(『高橋氏文』などの史料に基づく説)
- 布留の高橋との繋がり: 石上神宮の次に歩いた場所にある「布留の高橋(ふるのたかはし)」という地名もまた、この高橋氏との関係が示唆されています。

古代の朝廷で「膳職(料理人)」を務めた一つの氏族が、山の辺の道の二つの重要な場所を、「豊日(豊火)」と「高橋」という名前で線として結んでいるのです。歴史が一本の道で繋がっていることを実感できる、大変ロマンあふれる発見ではないでしょうか。
明治・昭和の国家的な信仰の証
豊日神社の境内には、日本の近代史に関わる石碑も建っています。それが「神武天皇遥拝所(じんむてんのうようはいじょ)」です。

- 遥拝所の意味: 遠く離れた場所から神を拝むための施設を指します。
- 神武天皇への信仰: この石碑は、初代天皇である神武天皇を祀る橿原市の橿原神宮、または神武天皇陵の方角を拝むために設置されました。
- 歴史的背景: 特に、神武天皇即位から2600年を迎えた昭和15年(1940年)の奉祝行事の一環として、全国の神社に設置されました。
豊日神社の「神武天皇遥拝所」は、この神社が近代の国家神道において重要な役割を担っていたことを示す、貴重な史跡なのです。
地域と近代化の足跡
そして、もう一つ現代に通じる歴史を語るのが、「神社合祀 道路改修 記念碑」です。

- 神社合祀: 明治時代後期に行われた、地域内の小規模な神社を統合し、豊日神社が地域の信仰の中心地としての地位を確立したことを記念しています。
- 道路改修: 神社合祀とともに、参拝者の増加や地域社会の発展を見据えた道路の整備・改修が行われたことを示しています。
古道の再整備という物理的な事業と、信仰の統合という精神的な事業を並行して行った証であるこの石碑は、豊日神社が地域の共同体としての歴史を支えてきた証でもあります。
まとめ:山の辺の道の交差点
豊日神社は、古代の神、中世の天神信仰、近代の合祀と道路改修、そして国家的な神武天皇信仰という、日本の歴史の幾重ものレイヤー(層)が重なった、非常に奥深い場所です。
さらに、高橋氏を通じて、私たちが歩いた山の辺の道の異なるスポット同士が、古代の歴史で深く結びついています。
山の辺の道を歩く際は、ぜひこの歴史の重みを思い浮かべながら、その静かな境内で時の流れを感じてみてください。
次回は、山の辺の道をさらに北へ進み、奈良市方面のスポットをご紹介する予定です。
豊日神社へのアクセス
奈良県天理市豊井町602
石上神宮から、山の辺の道を歩いて15分ほどです。
駐車場はありません。
11月の末に参拝すると紅葉が綺麗でしたので、山の辺の道から少し西へそれて、豊日神社が鎮座する杜を振り返ってみました。

最後までお読み頂きありがとうございます。


