天理市観光協会さんのサイトを見ながら、おススメの観光スポット巡りをしているみくるです。
前回は「はにわの里コース」から、天理市櫟本町に鎮座する「鬼子母神社」をご紹介しました。
今回は、「はにわの里コース」の出発点であるJR「櫟本駅」をご紹介します。ノスタルジックな雰囲気の漂う無人駅です。

難読地名の「櫟本」の由来も合わせてご紹介しています。
明治31年の木造駅舎が健在「JR櫟本駅」
概要
櫟本駅は、奈良県天理市櫟本町にある、JR西日本桜井線(万葉まほろば線)の駅です。

1898年(明治31年)5月11日に奈良鉄道が京終駅 – 桜井駅間で開業した際に設置されました。開業当時の木造駅舎が現役で使用されています。

駅の構造
王寺鉄道部管理の無人駅です。相対式ホーム2面2線を持ち、交換設備を有します。駅本屋側が下り(高田方面)本線、跨線橋を渡って反対側が上り(奈良方面)本線です。

2線あるホームは長く、真ん中に中線があった事を思わせる空間が残っています。天理教団体参拝列車が停車または行き違いするため、機関車牽引8両に対応するためとのこと。
礼祭の時は、鉄道ファンの間で「天理臨」と呼ばれる臨時の専用団体列車が運行され、日本各地から天理市に信者が訪れられていたそうです。
今は無人駅となりひっそりとしていますが、かつては多くの方で賑わったのでしょう。
駅舎内部の窓口や待合室などは新しい駅のように改装されています。2002年より無人駅となっていて、窓口のシャッターは降りていますが、券売機とICOCAのカードリーダーが設置されてます。

待合室には自動販売機が設置されています。

櫟本の由来
櫟本駅の名前は、駅が設置されている集落名によります。
天理市観光協会さんのサイトの町名の由来が掲載されているページより引用します。
古事記の応神記に、櫟井(いちひゐ)の丸邇坂(わにさか)の土(に)を・・・云々の歌があり、姓氏録に櫟井臣の名が見え、中世には櫟庄・櫟韋庄・櫟本庄などの庄園名が現れるので、古くからこの地は櫟(いちい)または櫟井といったのが、櫟本庄となりました。櫟の木があって起こった名か、または櫟の木の下に井があって名づけられた地名です。櫟本庄は、中世、櫟本郷となり、近世の検地で櫟本村と呼ばれましたが、市場(いちば)・高品(たかしな)・膳夫(かし)・南小路(みなみしょうじ)・四之坪(しのつぼ)・瓦釜(かわらがま)の垣内に分かれていて、今も大字に準ずる集落です。
地名に歴史あり―町名の由来(櫟本)
応神天皇の時代から櫟井の名が見られるのですね。天狗の住んだ櫟の巨木があったという伝説も伝わります。
櫟旅マップ 伝・山の辺の道&上ツ道
駅前に「櫟旅マップ 伝・山の辺の道&上ツ道」と書かれた案内板が設置されています。

櫟本を散策していると、随所に設置されている案内版に「伝・山の辺の道」と記載されていることに気付きます。

「伝・山の辺の道」について調べていると、天理の魅力を紹介されているサイト「めぐみみるてんり」が見つかりました。
サイト内の「伝・山の辺の道とは」のページより引用させて頂きます。
伝・山の辺の道とは
櫟本(いちのもと)は、奈良と飛鳥を南北に結ぶ道と、都祁と河内とを東西に横断する道が交差する地点で、古代より交易の中継拠点の市場として賑わいました。
https://megumimegurutenri.com/news/706
この地を本拠地としていた古代豪族 和爾氏をめぐるロマンに思いを馳せながら柿本寺跡、和爾坐赤坂比古神社、サムライ街道と巡るルートを『伝・山の辺の道』と名付けました。
櫟本を巡るモデルコースが選定された際に名付けられたようです。

サイト内で詳しく解説されていますので、皆さまもワニ氏をめぐるロマンに思いを馳せながら「伝・山の辺の道」を散策されて下さいね。
古代豪族ワニ(和爾・和珥・丸爾)氏については、祭祀場跡が見つかった「櫟本高塚遺跡」をご紹介するページで解説しています。
櫟本駅から上ツ道へ
櫟本駅から東へ進むと「上ツ道」との交差点に出ます。

上ツ道は、大和の古道のうち最も東側の山麓側に位置し、国道169号線天理街道とJR桜井線の間に並行して通る道で、上街道とも呼ばれています。

交差点に案内標が設置されています。南へ進むと在原神社です。

北へ進むと楢神社です。

このように、随所に案内標が設置されているので安心して散策できます。
JR櫟本駅へのアクセス
奈良県天理市櫟本町
こちらの記事では「はにわの里コース」より、「和爾下神社」をご紹介しています。在原神社の次のスポットで、JR櫟本駅より上ツ道(上街道)を南へ進み、徒歩約9分です(169号線沿いの鳥居まで)。
最後までお読み頂きありがとうございます。