神社仏閣巡りと和歌が好きなみくるです。
今回は、奈良県天理市布留町に鎮座する厳島神社をご紹介します。
厳島神社の付近一帯には良因寺という、僧正遍照が僧となって居を構えていたお寺がありました。
境内には、僧正遍照と小野小町の贈答歌が刻まれた歌碑が建っています。二人は恋愛関係にあったと言われています。
厳島神社(天理市布留町)
天理市には、厳島神社がいくつかあります。今回ご紹介するのは布留町にある厳島神社です。石上神宮の参道入口より100m余り北側にある神社です。
和歌の名人・僧正遍照
僧正遍照は俗名を良岑宗貞といい、桓武天皇の孫という高貴な生まれでした。第54代仁明天皇の蔵人頭を務めましたが、天皇の崩御後、世をはかなんで出家して天台宗の僧侶となり、僧正(僧官の最高位)にまでなりました。
『古今和歌集』仮名序において、紀貫之が「近き世にその名きこえたる人」として名を挙げた「六歌仙」の一人です。また、藤原公任の『三十六人撰』に載っている平安時代の和歌の名人36人の総称である「三十六歌仙」の一人でもあります。
出家前に詠んだ情感あふれる歌が『百人一首』に選定されています。
僧正遍照と良因寺
厳島神社の付近一帯には良因寺という、僧正遍照が一時居を構えていたお寺がありました。
厳島神社前の説明板です。
いそのかみ寺と良因寺
この村布留町に室町朝時代に二つの有名な寺がありました。一つは、いそのかみ寺(小野小町が訪れた寺)と僧・遍昭がいた良因寺の二つである。
良因寺は、この厳島神社附近一帯がその境内地で寺領も一町二反六十歩(約四千坪)あり、今でも西塔、堂の前、堂の垣内、堂の後という小字名がのこっている。いそのかみ寺は、石上神宮の境内地のどこかに祭られていたと思われますが、寺跡も記録もないので説としてとどめおく次第。
小野小町は淳和・仁明天皇に仕え、絶世の美女で歌才も豊かで、六歌仙の中で唯一人の女性歌人であった。遍昭は、桓武天皇の孫にあたり時の帝に仕え要職にあったが、後出家して俗名宗貞を遍昭と名乗り、良因寺の僧となってこの地に住居していた。
厳島神社の説明版
小町も三十才の時、宮仕えを止め、都から遙々この地に旅を楽しみ、日没に成ったので遍昭この地に住居すると聞き、一夜の宿を乞ふ。(後略)。
「いそのかみ寺は寺跡も記録もない」とありますが、近年の発掘調査の結果、「良因寺」と「石上寺」は同じ寺で、厳島神社の北東近辺に所在していたことが明らかにされました。
僧正遍照と小野小町
石上神宮から、厳島神社に向かう途中にあった説明板です。
こちらには「良因寺は石上寺、良峰寺、良因院とも呼ばれ現在厳島神社境内地附近一帯が境内にて」とあり、同じ寺であったことが分かります。
小野小町の歌の詞書にある「石上という寺に詣でて」とあるのは、僧正遍照が住んでいた良因寺と同じということになります。遍照を訪ねて来たのですね。
厳島神社の境内に建つ歌碑です。僧正遍照と小野小町が交わした歌が刻まれています。
小野小町に恋する男として『大和物語』に登場している「深草少将」のモデルは、僧正遍照とも言われています。
厳島神社の境内の様子
厳島神社の境内地附近一帯にあった良因寺は、1町2反(約四千坪)の広大な寺院でしたが、今は小さな薬師堂が残るのみです。
厳島神社の鳥居
拝殿
本殿
薬師堂
薬師堂は、遍照が良因寺を建てた時に、守護堂として建てたという説があります。現在の薬師堂は明治中期頃に再建されたものです。
説明板に「お堂の中には四天王像があったが、炎上して再建した際にお金に換えて資金にした」と書かれています。
御本尊の「通称薬師さん」は、火事の際、炎をかぶり全身黒く一部焼けた部分もありますが、そのままの姿で安置されています。
手水鉢
庚申塚
石仏
厳島神社(天理市布留町)へのアクセス
奈良県天理市布留町90
駐車場はありません。
石上神宮より北へ徒歩6分ほどです。
こちらの記事で石上神宮をご紹介しています。
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