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【山の辺の道 寄り道案内】皇室に献上された「石上銅鐸」出土地へ|竹林の奥に隠された2000年前の祈り

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山の辺の道や古墳が好きで、よく天理市に出かけているみくるです。

前回の記事では、物部氏の巨大な権勢を感じる「ウワナリ塚古墳」をご紹介しました。石室の入り口を守る鉄扉の重厚感は、今も記憶に新しく残っています。

さて、今回はそのウワナリ塚古墳へと向かう途中にあった、あの「運命の分岐点」まで少し戻ります。

山の辺の道を歩いていると、ふと目に留まる小さな案内板。 大半の人は通り過ぎてしまうその脇道の先に、実は日本を代表するような至宝が眠っていた場所があることをご存知でしょうか。

今回は、「山の辺の道」北コースから少しだけ寄り道。 古墳時代よりもさらに数百年さかのぼる、弥生の祈りの地「石上銅鐸出土地」を訪ねました。 皇室に献上されたほどの価値を持つこの場所には、メインルートの喧騒とは違う、静かな時間が流れていました。

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皇室に献上された「石上銅鐸」出土地へ

前回の記事でご紹介した「ウワナリ塚古墳」へは、案内版のある分岐点から山の辺の道を外れて、右に進みました。

今回ご紹介する「石上銅鐸出土地」へは、山の辺の道に戻り「白川ダム(白川溜池)」の方へ進みます。

しばらく歩くと、「石上北低区配水池」の貯水タンクが見えてきます。

山の辺の道はここから左に折れていますが、「石上銅鐸出土地」へは、このまま真直ぐ進みます。

白川ダムへは、ここから1.5kmです。

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竹林の中に佇む「歴史の証言者」

竹林の間の道を少し歩くと、木々に囲まれた一角に「石上銅鐸出土地」と刻まれた石碑が、ひっそりと佇んでいました。

ここは大正時代、二つの銅鐸が寄り添うように重なって目覚めた場所です。

古墳のような巨大な石室があるわけではありません。しかし、何もない静寂に包まれたこの空間に立つと、かえって想像力がかき立てられます。

石上銅鐸は明治16年(1883年)とその翌年に、1個ずつ見つかりました。農作業中に見つかったもので、記録によると、石碑から北側へ数メートル離れた、別々の場所で出土しています。

ここで出土した銅鐸は「流水文銅鐸」・「新段階(突線鈕1式)」と呼ばれるもので、「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」に変わる段階のものです。
時期的には弥生時代中期の終わり頃(紀元50年前後)と考えられています。

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そもそも「銅鐸」ってどんなもの?

ここで少し、銅鐸についておさらいしておきましょう。 銅鐸は、今から約2,000年前の弥生時代に作られた青銅器の「カネ(鐘)」です。

  • はじまりは「楽器」: 最初は手のひらに乗るような小さなサイズで、中に「舌(ぜつ)」という棒が入っていました。それを振り動かしてカラコロと音を鳴らし、豊作を祈るマツリの道具として使われていたそうです。
  • やがて「宝物」へ: 時代が進むにつれて銅鐸はどんどん巨大化し、音を鳴らすためではなく、祭壇に据えてその威容を「見る」ための宝物(権威の象徴)へと変わっていきました。
  • 描かれた弥生の風景: 表面にはシカやカマキリ、高床式倉庫など、当時の人々の暮らしが描かれているものもあり、弥生時代の精神世界を今に伝える貴重なタイムカプセルでもあります。

石上銅鐸も、そんな弥生文化が最も成熟した時期に作られた、美しく荘厳な「宝物」の一つだったのです。

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2,000年前のハイテク?銅鐸づくりの舞台裏

石上銅鐸出土地の静かな竹林を歩いていると、「あんなに精巧なものをどうやって作ったんだろう?」という疑問が湧いてきます。

その答えのヒントを、「橿原考古学研究所附属博物館」で見つけることができました。

展示されていたイラストを見ると、弥生時代の人々が熱い金属を扱い、力を合わせて銅鐸を作っていた様子がよく分かります。

銅鐸の「鋳型(いがた)」の復元品も展示されていて、その細かさに驚きました。複雑な模様も、この型にあらかじめ刻み込まれているんです。

今の私たちの暮らしを支える「石上北低区配水池」の巨大なタンクも現代の技術の結晶ですが、2,000年も前にこれほど高度な「鋳造」の技術があったことに、改めて感動してしまいました。

撮影禁止だったので写真はありませんが、「橿原考古学研究所附属博物館」では、石上銅鐸の復元品も展示されていたので、ぜひそちらも見て下さいね。

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皇室に献上された至宝「石上銅鐸」

石上銅鐸について調べていくと、驚くべき事実が分かりました。 実はこの銅鐸、明治時代に発見された後、皇室に献上され、現在は東京国立博物館に保管されています。

この銅鐸は,明治17年に奈良県天理市石上から出土し,その後,皇室に献上されたものである。身は規則的な流水文によって飾られ,片面は上下に区分されて描かれているが,もう1面には区画が認められない。本品の大きな特徴としては,鈕の部分に2人の人物像が鋳出されていることである。棍棒,あるいは武器のようなものを手にしている姿は,祭りの場面もしくは戦いの場面を表現しているともいわれている。この銅鐸は,吊り下げて音を出す機能(聞く銅鐸)から,置いて見る銅鐸(見る銅鐸)へと移りかわっていく頃の特徴をよく示した資料である。

所蔵資料詳細/銅鐸 – 宮内庁

宮内庁の公式サイトではその貴重な姿をカラー写真で確認することができます。

所蔵資料詳細/銅鐸 – 宮内庁

解説によると、武器のようなものを持った人物像が描かれており、「祭り」か「戦い」の場面ではないかと言われているそうです。

「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へと変わっていく過渡期の貴重な資料。 かつてこの竹林から見つかったものが、今も日本の宝として大切に守られていると思うと、この場所が持つ「聖地」としての重みがより一層増して感じられました。

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桜井で見た「大福銅鐸」との不思議な繋がり

銅鐸といえば、以前訪れた「桜井市立埋蔵文化財センター」で出会った「大福銅鐸」のことを思い出します。

あちらは、鰭(ひれ)を立てて横に寝かせた状態で発見された、非常に珍しい出土例でした。

この石上銅鐸も、弥生時代後期の「袈裟襷文(けさだすきもん)」という美しい文様を持つ、当時の近畿地方の王道ともいえるスタイルです。

桜井と天理。場所は違えど、当時の人々が「祈りの道具」を土に還した際の丁寧な作法には、何か共通する温かみや、切実な願いがあったのではないかと感じてなりません。

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なぜ人は、銅鐸に惹かれるのか

銅鐸は、お墓に入れられる副葬品ではなく、なぜかムラの境界や人里離れた山の斜面から「隠すように」見つかります。

以前、桜井の記事でも触れた「地中保管説」や「境界説」。 なぜ弥生の人々は、この美しい音色を地中に封印したのでしょうか。

物部氏がこの地に巨大な古墳を築く数百年も前、石上神宮ができるさらにずっと前から、この場所は「神聖な場所」として選ばれていた。そう思うと、銅鐸の錆びた青緑色の輝きは、失われた古い信仰の残り香のように思えて、不思議と惹きつけられてしまうのです。

地中に眠る「音」が繋ぐ、天理の記憶

巨大な石室で圧倒的な「力」を見せつけた石上大塚古墳ウワナリ塚古墳。 それに対し、地中にひっそりと封印されていた石上銅鐸は、もっと優しく、もっと内面的な「祈り」の象徴のように感じます。

天理の里山を歩くと、時代の異なる「力」と「祈り」が、幾重にも重なって今の風景を作っていることに驚かされます。

さて、この竹林で太古の音色に想いを馳せた後は、すぐ近くにあるもう一つの重要な場所へと向かいます。そこは、第25代武烈天皇の皇居があったとされる伝承地。

次回は、美しい朱色の鳥居が印象的な「姫丸稲荷神社(石上廣高宮伝承地)」をご紹介します。

石上銅鐸出土地へのアクセス

奈良県天理市石上町

名阪国道・天理インターと天理東インターの間に、名阪国道をまたぐ白川大橋があります。
この橋の南端には四差路があり、西へ別れる道を600m程進むと、銅鐸出土地を示す石碑にたどり着きます。

「山の辺の道」北コースのガイドマップ
山の辺の道(北)コース | 天理観光ガイド・天理市観光協会

「山の辺の道」北コースを歩いてみませんか?

前回の記事でご紹介した「ウワナリ塚古墳」だけでなく、北コースには魅力的なスポットがたくさんあります。 石上神宮から円照寺までを無理なく楽しむための3つのウォーキングプランをこちらで詳しくまとめています。

最後までお読み頂きありがとうございます。

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