山の辺の道を石上神宮から奈良まで歩いているみくるです。
「白川ダム」の開放的な景色で心身ともにリフレッシュした後は、いよいよ「山の辺の道」北コースの後半戦へと踏み出します。
ここから先は、これまでの「天理市」のエリアから、少しずつ「奈良市」の気配が濃くなっていく区間。これまでずっと道標やマップで私たちを導いてくれた「天理市観光協会」さんのガイドも、ゴールの「円照寺(えんしょうじ)」まであとわずかとなりました。

そんな旅の節目を感じながら、「弘仁寺(こうにんじ)」を目指して坂を上り始めると、道端にそっと佇む一つの歌碑に出会いました。それは、これまでの万葉歌碑とは少し趣の異なる、新しい物語の始まりを告げるものでした。
二色の道標を追いかけて、知恵の仏「弘仁寺」へ
舗装路の歩きを彩る発見:二種類の道標を追いかけて弘仁寺へ
「白川ダム」から、「山の辺の道」北コースの次のスポットである「弘仁寺(こうにんじ)」までは、距離にして約1.6km。15分から20分ほどの道のりです。

山の辺の道を歩く時は、奈良県の伝統色・「蘇芳色(すおういろ)」の道標を見つけると安心しますが、ここでは「東海自然歩道」の茶色の道標も顔を出します。

この区間はきれいに舗装された道路が続きます。

一見すると風情とは無縁に思える道ですが、そこには理由がありました。

実はこの先、急な坂を上りきった先に待つ弘仁寺は、まさに『隠れ里』のような静寂に包まれています。

舗装道路の足元の風情は控えめですが、視線を上げると面白い発見があります。それは、道を案内してくれる「道標」たちの共演です。
山の辺の道ではお馴染みの蘇芳色をした道標とは異なる、落ち着いた茶色の「東海自然歩道」の道標が建っています。

実はこの道、東京から大阪まで続く全長約1,700kmもの壮大な「東海自然歩道」の一部でもあるのです。見慣れた蘇芳色の案内が「歴史の深さ」を感じさせてくれる一方で、茶色の案内板は「遠くの街まで繋がっている旅の広がり」を予感させてくれます。

単調に見えるアスファルトの道も、二色の道標を交互に追いかけていけば、まるで二つの旅を同時に楽しんでいるような、ちょっと贅沢な気分になれるはずです。
歌碑が語る清らかな旅の心
白川ダムから弘仁寺までは、景色に大きな変化はありませんが、ここからは「奈良道を守る会」さんが設置してくださった歌碑を探しながらの、いわば『歌碑の宝探し』が始まります。
弘仁寺の手前で、山の辺の道は大きく左に折れているのですが、道標の傍らに歌碑が建っています。

最初に見つけたのは13番の歌碑です。

これまで頼りにしてきた天理市の道標から、いよいよ奈良市の『奈良道』へとバトンが渡されたのを感じて、足取りが少し軽くなりました。

13番の番号が振られたその歌碑には、こんな歌が書かれています。
汀きはに 立もよられぬ 山賤の
影はづかしき 清澄の池
出典・詠人 堀川百首
(よみ)
みきはには たちもよられぬ やまかつの
かけはつかしき きよすみのいけ
(現代語訳)
池のほとりに立つことさえためらわれる。私のような賤しい姿が映ってしまうのが恥ずかしいほど、この池は清らかだ。
古道を歩き、自然の美しさに心洗われている旅人の謙虚な心境が、時を超えて胸に響きます。
この13番という番号を冠した歌碑こそが、ここから先の道を守り伝える「山の辺の道『奈良道』を守る会」さんによる道標なのです。

案内板には『夫木和歌抄』、守る会さんのサイトには『堀川百首』と出典が記されていますが、実はこの歌、平安時代後期の歌人・源顕仲が『堀川百首』のために詠んだ一首が、後に『夫木和歌抄』に採録されたもの。
『堀川百首(ほりかわひゃくしゅ)』は、1100年頃(平安時代後期)に堀川天皇の命で編纂された歌集です。当時のトップ歌人たちが100首ずつ詠んで献上しました。
『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)』は、 それから約200年後(鎌倉時代)に、あらゆる歌集から膨大な数の歌を集めて作られた、今でいう「超豪華ベスト盤(全31巻)」です。
歌に詠まれた「清澄(きよすみ)の池」とは、特定の場所というより、清く澄みわたった池の美しさを讃えた言葉。
かつての白川溜池、そして今の白川ダムの豊かな水面を眺めていると、平安時代の歌人が『自分の姿を映すのが恥ずかしい』と感じたほどの清らかな情景が、今もこの地に息づいているのを感じるようです。
鎌倉時代の巨大な和歌全集に選ばれるほど、当時の人々にとっても「清澄の池」の情景は心に響くものだったのかもしれませんね。
奈良の古道を未来へ繋ぐ「奈良道を守る会」
ここで、私たちが今歩いている道を支えてくださっている方々についてご紹介させてください。
「山の辺の道」といえば、桜井〜天理間の南コースが有名ですが、そこから北へ続く奈良市内の区間は、歴史的な重要性がありながらも以前は整備が遅れていました。

この状況を改善し、奈良道の魅力を未来へ継承するために、平成20年(2008年)に発足したのが「山の辺の道『奈良道』を守る会」さんです。
会の方々は、沿道の清掃や案内板・道標の設置、万葉植物の植栽、さらには詳細な案内地図の作成など、多岐にわたる活動をボランティア中心で行っていらっしゃいます。

その功績は高く評価され、平成28年度には環境省の自然歩道関係功労者表彰を受賞されるほど。私たちが今、迷わずにこの静かな古道を歩き、美しい歌碑に出会えるのも、こうした地道な活動があってこそなのですね。
天理から奈良へ、バトンを繋ぐ道
ずっと頼りにしてきた天理市観光協会のマップと、新しく参考にする「奈良道を守る会」のマップ。弘仁寺から円照寺の間は、ちょうどこの二つのエリアが重なる区間です。
慣れ親しんだ天理市のガイドに感謝しつつ、ここからは守る会さんが設置してくださった歌碑を一つずつ見つける楽しみを道標に、奈良へと向かう新しい視点に切り替えて歩みを進めます。

結び:高台に佇む「虚空蔵さん」の懐へ
歌碑の余韻に浸りながら歩みを進めると、ようやく目的地の「弘仁寺(こうにんじ)」に到着です。

山の辺の道の道標に従って右に曲がります。

いつもの山の辺の道の蘇芳色の道標にも、「東海自然歩道」の文字が見て取れます。

この坂を上ると長い石段が現れます。

石段を上ると現れるのは、弘仁寺の「西側(裏側)」の入り口。初めて訪れる方は「ここから入っていいのかな?」と少し戸惑うかもしれません。

本来、参拝は東側の表門(正門)から入るのが正式な形ですが、山の辺の道のルートは、このお寺の懐を西から東へと通り抜けるように設定されています。
「裏から入り、境内を抜けて、表から旅を続ける」
それはまるで、弘仁寺という聖域の中を通り抜けさせてもらうことで、心身を清めてから次の道へ送り出してもらうような、独特の参拝体験です。

西側から入るからこそ出会える、静かな裏手の佇まいや、境内を通り抜ける瞬間にパッと開ける視界の移り変わりを、ぜひ楽しんでみてください。

ここは、弘仁5年(814年)に嵯峨天皇の勅願によって創設されたと伝わる古刹。地元では「虚空蔵(こくぞう)さん」の愛称で親しまれ、智恵を授かるお寺としても知られています。
これまでの古墳巡りやダムの風景とは打って変わり、境内は凛とした静寂に包まれていました。石段を一段ずつ踏みしめるたびに、心が静かに整っていくのを感じます。
さて、そんな弘仁寺の詳しい見どころや、境内で感じた独特の空気感については、こちらの記事で詳しくご紹介しています。あわせてぜひご覧ください。
マップを切り替え、さらなる「奈良道」の深部へ
白川ダムから弘仁寺までの1.6km。 舗装された道路が続く単調な道のりに思えましたが、二色の道標を数え、平安の歌に耳を澄ませて歩いてみると、そこには「天理」から「奈良」へと旅の主役が移り変わる豊かな時間が流れていました。
弘仁寺の境内を西から東へと通り抜け、正式な参道である石段を下りてくると、景色はさらに「奈良道」らしい静かな佇まいを見せ始めます。
「山の辺の道」北コースを歩く方へ
石上神宮から円照寺まで、見どころが点在する「山の辺の道」北コース。全体のルート確認や、体力に合わせた歩き方のプラン立てには、こちらのガイド記事もぜひ活用してくださいね。
長らく頼りにしてきた天理市観光協会さんのマップも、いよいよ次の「円照寺(えんしょうじ)」まで。ここからは、これまで以上に「山の辺の道 奈良道を守る会」さんが設置してくださった歌碑が、心強い道しるべとなります。
弘仁寺をあとに次なる目的地・円照寺へと歩を進めると、さっそく道端に「11番」の番号が振られた大伴家持の歌碑が出迎えてくれました。
万葉の時代から変わらぬ調べと、地元の方々の愛情に支えられたこの道。次はどんな歌と景色に出会えるのか、期待に胸を膨らませながら、さらに北へと歩みを進めます。
最後までお読み頂きありがとうございます。



